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梅之ゆたか著
小説ファンタジー詩集歌集
神代水の衣夜桜

水の衣

1両しかないローカル線の駅を出て立ち止まり、新鮮な山の空気を吸い込む。その村は、暑い夏の盛りというのに、夏とは思えないほど涼しい。しんとした深い森。冷たくてきれいな空気。岩清水。急な流れから水を湛えた淵。淵に落ちる滝のカーテン。その水飛沫。気候も景色も夏の神楽に実に相応しい。
滝のカーテンの下に行ったらずぶ濡れで、ロマンティックどころじゃないかしら。本当に、一度だけといわず、何度でも来たくなる所ね。ニ度目だけれど、季節が違うから全く違って見えるもの。

そんなことを考えている彼女の名前は、三觜叶。変わった名前だからよくいじめられたものだ。簡単にはいじめられてやらなかったが。不思議に、いじめっ子達は急にお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしていたような気がする。自分でも不思議だったが、それを怖がられると言ったものだ。
「ご先祖様が守ってくれたのよ。うちのご先祖様は陰陽師だったのよ。自業自得よ。罰が当たって当然よ!ゴタクを並べてないで反省したら!イジメる方が悪いんだからね!わかった!」
よくそれで済んだものだ。運が良かった。今、この国は不安と無秩序が蔓延しているのだから。さあ、か弱い一市民は、少ない休暇を楽しまなくっちゃ。やっとこの日がきたのだから。いつかこの村の神楽を泊りがけで堪能しようと決めたのは一年も前だった。
前回この村に来たのは春だった。春の嵐の後で、森の澄んだ空気の中に春の息吹と荒々しさが満ちていた。神々の怒りのようなものを感じて少し怖いような気にもなった。
その時に利用したタクシーの運転手に聞いたところでは、夏に来れば貸しボートに乗れるし、長い夏祭りもある。毎日違う内容の夜神楽が一ヶ月も続く、ということだった。毎年の祭の最終日には、水神の花嫁に選ばれた女性が、『水神宮』の石舞台で、水神様の花嫁衣装を模した『水の衣』という薄衣をまとって舞を奉納するのだという。
山里とはいえ、神代を偲ばせる貴重な遺跡の数々と伝承の豊富さで、四季を問わず観光客が訪れる。観光道路が縦横にできたので、随分便利になったそうだ。土産物屋も去年より一段と垢抜けしてしまっている。表面は昔ながらでも、生活は現代化されているようだ。新旧の良さだけが残っていけばいいのだけれど、と思いながら、宿泊先の『水離宮』に向かう。

『水離宮』は、水神の離宮だったと伝えられる屋敷跡から、それを想像して、できる限り再現しようとした建物だそうだ。なぜ宿泊ができるかというと、これは水神の守役と伝えられる一族、つまり、民間人が建てたホテルだかららしい。あるところにはあるものね、と苦笑する。一族の殆どは、もう山奥に住んではいないらしいが。その一族は、名の知られた証券会社を筆頭に、近年は情報産業の分野で先を競っているのだから。
やれやれ、神秘に満ちた世界を感じたくて来たくせに、わたしは何を考えているのかしらね。もう三十路が目の前にちらついているというのに、彼氏の一人もいやしない。自分に愛想を尽かしそう。昼食の時間は過ぎているから、散歩でもして、どこかで軽く食べよう。でも、まず真っ先に夏の淵の水を堪能しよう。そう思い立ち、荷物を置いて汗を流すやいなや、ホテルの前でタクシーに乗り込み、淵に向かった。

運転手によれば、淵から少し離れた『水神の宮』では一昨日から夜神楽が始まっているそうで、観光客の数が一気に膨れ上がっているのがタクシーの中からでも判る。夜神楽は一度として同じ内容が舞われることはなく、衣装も文化財の指定を受けているというが、よく創ったものだ。神楽の創作者は恐ろしく天才だったに違いない。
遊歩道が広い淵まで続いているというので、遊歩道の近くの茶店の前でタクシーを降りた。淵に注ぐゆるやかな流れも、この上流ではいかにも荒々しい。その流れに沿って、細い遊歩道が延びている。
お腹がたいそう空いてきたので、探索は後にして茶店に入り、冷やしそうめんと蕨餅を注文した。素麺にはお決まりのキウリとトマトのスライス、それにサクランボもちゃんと入っている。蕨餅がよく冷えていて、もちもちとして、黄な粉も甘すぎず、とてもおいしい。

お腹が満足したところで、淵まで遊歩道を辿ってみることにした。遊歩道は土のままで、人一人が歩ける程度の幅の小道が細々と続いている。道路から下がるので、流れが近くになり、岩にぶつかる水の荒々しさに心が踊る。
少し下ると細い流れではあるけれど荒々しさが消えた。貸しボートはここまで上るというが、よほど腕に自身が無ければ左右の岩肌にぶつかりそうだ。
また少し下ると、一段とゆったりとした大きく深い流れになった。
対岸はと見やると断崖絶壁になっている。暗い森を背に、文字通り水面に垂直に岩の壁が立ち、水をその大きな身体で抱えているようだ。
下流に水を湛えた淵が見える。淵に向かって遊歩道をゆっくりと下る。夏草も観光客のために短くされているらしい。流れに向かっている夏草だけが、のびのびと葉を伸ばすのを許されている。
対岸の森はこちら側と違い深く暗いが、人が通れる道があるようだ。対岸の木々に溶け込むように、古代の幻のような出で立ちの人影が淵の向こうに見える。つい惹かれて目を凝らした。祭の参加者だろうか。各人が楽器を持っているようだ。笛?横笛だろうか。太鼓に鼓かしら。小型のハープのようなものも見える。女性ばかりのように見える中に男性が一人だけいて、その男性からは、目を見張るほどの凛々しさと力強さが感じられる。
彼は、楽器を手にしていない。代わりに、たとえ様もないほど美しい薄衣を手にしている。透き通るようでやや張りがあり、とても軽いようだ。淵を渡る心地良い程度の風にさえ、今にも飛んでいきそうに見える。なんて美しいのかしら。『えもいわれぬ』というのはこういうものに使うのかしらと思いながらうっとりと見惚れていると、薄衣がふわりと舞いあがり、風に踊った。

目の前の光景に惹きつけられ、我を忘れて見入っているのに気づき、視線を動かした。途端に、その男性と目が合ってしまったので、照れ隠しににっこりと微笑みかけた。でも、彼はひどく驚いているように見える。なぜかしら。でも、優しい微笑が返ってきたから二重丸!なんて素敵に微笑むのかしら。それにとってもハンサム。それに、ああ、向こう岸まで行きたいくらい!
彼から目が離せない。彼はなぜわたしを見つめているのかしら。彼から目をそらしてくれないかしら。いいえ、やっぱり逸らさないでほしい。どこかに行ってしまいそうだから。ああ、胸が破裂しそう。足の感覚がなくなっていくみたい。わたしはちゃんと立っているのかしら。わたしはどうしたのかしら。一体何を考えているのかしら。人にはどう見えているのかしら。やだもう、どうしよう。

彼が薄衣を掲げた。薄衣は、渓谷を渡る風にあおられ舞うようにふわりと広がった。あの衣がここまで飛んでこないかしら。しかし、次の瞬間、衣は彼の手にあった。一緒にいる女性達が横に立ち、こちらを見ている。彼がまた微笑み、わたしも嬉しくて微笑み返した。彼は手にしている衣を振り、わたしは手を振り返した。そして、彼と女性達は森の中に消えて行った。
叶は彼らが行った後も、彼らが消えた森を見ながらぼうっと立っていた。なんだか随分長い時間見つめ合っていたような気がする。きっと、お祭だから皆扮装していたのよね。神代の人達は皆あんなに素敵だったのかしら。夢みたいに幻想的だったわ。今の出来事だけでもいい思い出になりそう。神様がちょっとだけプレゼントしてくれたのね。

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