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佐吉の葬式が済み、初七日が過ぎた。そろそろ、相続の手続きをしないといけないが、正夫も佳菜も相続については無知だった。しかし、役所に相続の手続きは誰に依頼したら良いのか尋ねてみると、すぐに気さくな返事が返ってきた。二人は、役所で教えられた、町に唯一人の弁護士に手続きを依頼した。
その結果、遺産が全て佳菜の名義になると知り、正夫は憤慨した。当時の男性にとっては不名誉な養子縁組を、遺産が相続できると思えばこそ我慢していたというのに、娘の佳菜はともかく、正夫には相続の権限は全くないのに、近しい縁戚にはあるという。その財産も、朽ちかけた家と庭、海沿いの山だけで、預金が全くないと知っては、開いた口が塞がらなかった。
佳菜は、弁護士と相談し、相続権のある縁戚に相続破棄の印を押してもらい、その僅かな遺産を相続した。
正夫の我慢は限界を超え、自暴自棄になり、朝から酒を飲むようになった。そのうち、軽いアル中になってしまい、端からは、酒気が切れると手が震えるのがわかった。外で遊びまわり、給料は全く入れず、家にも戻らなくなった。
正夫が家を出て数ヵ月後、もうやり直すことを諦めていた佳菜を、血の繋がらない従兄が訪ねてきた。正夫とはまだ仲が良いらしく、離婚の書類を持ってきたという。
たったあれだけの財産に、よくぞ固執できたものだ。それほどに、あの少ない財産がほしかったのかと、佳菜は呆れ果てた。親が死んだときには、子供だから養育に金がかかるというので自分の親の財産は何一つもらえなかったらしいが。だからこそ固執したのだろうか。
しかし、たったあれだけの財産のほうが自分より大事だったのかと思うと、同情の気持ちも失せた。佳菜は躊躇せずに印を押した。再婚して実に二十五年の月日が過ぎていた。
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しかし、佳菜にしても、何十年もの月日が過ぎたというのに、思い起こすのは最初の夫だった武志のことばかりだった。死ななくてすんだはずの忘れ形見の赤ん坊のことだった。
死んだ人間のことは、良いことばかりが記憶に残るというが、実際、佳菜を守るために大阪まで出向き、佳菜の将来を考えて、和裁の学校にまで入れてくれた。庶民の限りある財力でできうる以上のことをしてくれたのだから、余程好いてくれていたに違いない。
思い出だけでは生きてはいけないが、生きていく術を身につけさせてもらった。紡績工場にいた他の女性達から見れば、このうえなく運がいい。紡績工場で死ぬまで働いていたなら、どんな死に様をすることになっただろう。
佳菜にとって、まさに『地獄に仏』だった。人が一生のうちでそういう相手に巡り会うなど、滅多にあるものではない。その相手に巡り会うことができたのだから、それだけでも幸運なのかもしれない。武志との思い出は、大事にお墓まで持っていって行こう。あの世で武志に会えるのかもしれないし、そんなことはないのかもしれないが。どちらにしても、武志とのことは佳菜の生涯最高の宝物に違いない。
正夫のことも思い出さないことはない。が、何で、何で、と思うことばかり思い出してしまう。辛いことが多い。次々に子供を産んだというのに、その相手に対する恋慕の思いがないとは。
沙智子の病気も、腹を立てるだけで心配もしない。嫌うだけで、何もしてやろうとしない。学校も勝手に退学させてしまった。結果的にはそうなったかもしれないが、早々と退学させなくても良かっただろうに。休学届けで済ませていれば、本人の生きる張り合いも、気力も、もっと長持ちしたかもしれないものを。
そうしておいて、後は全部佳菜に押しつけた。知らぬ振りを決め込んで、入院に付き添ってやるでもなし、面会に行ってやるでもなかった。たまに病院が外泊許可を出すので、沙智子も家に帰ってくるときがあるが、その時に会おうものなら、露骨に機嫌を損ね、傍に近づけさせることもできなかった。
もっとも、沙智子のほうが普段は滅多に近寄っては行かなかったが。しかし、病状が悪いときにはその防衛本能が働かないのか、近づいて殴られそうになったことは何度もあった。これからは、家に戻っているときでも、安心してはいられるわけだ。沙智子自身は。
佳菜にとっては、沙智子が家に戻っているのは数日だと思っても、気になって、仕事に身を入れられないのだけれど。目を離すと、小さな子供のように、菓子を買いに行くのだから。実際、体は大きくても、知能は、今はもう、幼児のようになってしまっているから、しかたないのだけれど。
男のように腕力がないから、近所の人も避けたりはしないけれど、子供達は遠慮会釈がない。可哀相で見ていられない。本人が悪いわけではないのに、こんな目に遭って。あのままで一生を終わるんだろうか。他の子供達が何とかなりそうなのは有り難い。
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仕切りたがりの真沙子は嫁に行った。向こうでお姑さんとやりあいながらも、ご主人に好かれて十分味方をしてもらっているので、安心していられる。それに、本人がそれをちゃんと意識しているのが憎たらしくもある。かえって、お姑さんが気の毒になってくる。あんな気の強い嫁が来るとは思っていなかっただろうに。息子が気の強い嫁の言いなりなんだから腹が立ってしようがないことだろう。
結婚して数日で戻ってきた時は驚いた。ご主人が慌てて迎えに来たっけ。お姑さんを叱り飛ばしてきたと言うのには、本当に同情してしまった。頼りにしていた息子にそんな風にされたら、自分はどんな気持ちがするだろう。
美沙子は病気さえ治れば、また自活するだろう。自立心は人一倍だし、真沙子にあれこれ言われるくらいなら、少しぐらい苦しくても、他所で生活するほうを選ぶだろう。
実際、佐吉のことがなければ、まだ戻っていないだろう。失業保険を受けながらでも、向こうで生活していたに違いない。好きな仕事で楽しかったらしいのに、上手くいかないものだ。大阪にいる子が一人ぐらいいるのも良いかもしれないのに。
真沙子がいないときは、何かと優しいところを見せるのだけれど、真沙子がいると、毛を逆立てた猫のようにいきり立ってしまうんだから。真沙子に威圧されて育ったせいで、自信を持てないでいるようだし。早く何とか良い人を見つけて結婚してくれればいいけれど。
正也は、やっと生きて育ってくれた男の子だから、甘やかし過ぎてしまった。けれど、成績はさほどでもないようだったのに、良い会社に就職して何とかやっているようだ。思ったよりしっかり育ってくれたのは有り難い。
小さいときから、沙智子の傍で大きくなったから、何か影響を受けなければいいがと心配だったけれど、ここまで育てば安心しても良いだろう。女ばかりの中で育ったから、男としては少々おとなしいけれど。
何にしても、残すような財産なんか殆どないとはいえ、この家の跡取りなのだから、正也がちゃんとやっているのが何より嬉しい。正夫が捨てるというのなら、自分は何としても、ちゃんとやって見せよう。
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