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佳菜の夫武志が戦死し、その赤ん坊も亡くしてから、数年が過ぎていた。父の佐吉の放蕩は依然治まらず、散財する財産は底をついていた。そのうえ、僅かに残っていた田畑は、戦後処理の名目で取り上げられ、近隣の小作農家に僅かな金額で譲渡された。貧乏だった佐吉の家は全ての田畑を失って路頭に迷う寸前となり、佳菜の仕立物の代金だけで暮らすしかなくなった。
逆に、戦時中、佐吉の放蕩のお陰で、高値だった少しばかりの米と土地とを交換して潤った近隣の小作農家は、もう立派な自営農家となっていた。そのうえ、棚ボタで土地が取得できたのだから、その以前の小作農たちは嬉々として野良仕事に精を出し、日に日に貯えを増やしていった。
戦争の代価を大きく支払わされたのは、弱小の地主が多かった。しかも、佐吉の家は、地元の神社の神主の家系でもあり、古い家柄でもあったために、かえって災いしたのかもしれない。また、負けても金の力は健在というべきか、戦争で財を成した大企業は潰されずに残っていたりする。
考えているだけではどうしようもない。日を追うたびに、家計はなお一層火の車になっていく。国全体が、戦後の混乱で貧乏の最中にあり、この田舎も例外ではない。町に出なければ頼まれる仕立物も少ないが、町に出ようにも足がない。自転車は高くてとても買えない。まあ、もともと大して乗れないし、なけなしの金をはたいて買って乗ったところで何が変わるわけでもないだろう。
和裁学校で取った教授の免状があるのだし、家で和裁を教えたらどうだろう。免状は正式なものだから、昔自分が教えられていた頃のようにはいかずとも、ある程度の収入になるだろう。とはいっても、近所を当たっても、日頃から、仲の良い付き合いではないので、無駄足だろう。そうは思ったが、とにかく、仕立物を届ける先々で、教授をするので誰か習いたい人がいたら紹介してくれるように頼んで回った。
いくつかの町を巡って、呉服屋を回り、二軒の呉服屋から仕立物を引き受ける約束を取り付けることもできた。一軒は隣町なので、自分の方からも歩いて行けるのが有り難い。もう一軒はちょっと遠いが、向こうから時々来てくれることになった。どちらにしろ、呉服の量が嵩むと自分で持ち運ぶのは難しいのだから。しかし、よくもまあ、飛び込んで頼めたものだ。昔の自分からは想像もできない。
近所からは、やはり生徒は集まらなかった。しかし、町からは仕立ての評判の良さと、大阪の学校で教授の免状を取ったというのが幸いして、徐々に生徒が集まってきた。この田舎で、家から通えて、本格的な和裁を覚えられるというのが、田舎の教室の強みになった。
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今では、十数人の生徒に教えながら縫わせるので、やっと採算が取れだした。好きなものも買えるようになってきて、預金も僅かながらできるようになった。佐吉も、佳菜の収入はそれほど頻繁に持っていかなくなってきた。年を取り、放蕩に飽きたか、もうし尽くしたというところだろう。
ああ、良かった。この調子でいけば何とかなる。仕立物では食べていけるほどのお金にならなかったので、町に移ることも考えていたが、これで、ここにいてもやっていける。やっと、少しは人並みの暮らしが味わえる。
しかし、それは戦後の民主主義の波の中では長く続かなかった。
戦前の奉公的なやり方が次々に改められ、教授料は入っても、授業で仕上げた仕立物の仕立て代は、そのまま生徒に渡さなければならなくなった。身の入らない若い娘達を相手に教えるだけでも大変なのに、上手くもない仕立て物に仕立て代を払わなければならない。手直しや染みなどあれば教授した自分の責任になる。学ぶ方は願ったり叶ったりだろうが、佳菜にとっては、自分のときに比べ、なんとも割りに合わないことだった。
やっと息がつけるようになったのに。戦争が終わっても、女が働けるところは、この田舎では全くといっていいほどないのに。やっぱり、町に住んで、仕立物をしていくしかないのだろうか。二軒の呉服屋とは、もう懇意にしている。腕をかってくれているから、頼めばやらせてくれないだろうか。
聞いてみると、二軒ともが、自分で直接縫ってくれるほうが、良い仕立てなのは間違いないので、縫わせてくれることになった。結局、自分で仕立物を請け負うのが一番と覚悟を決め、和裁の教授は廃業した。
しかし、何とか家計をやりくりしようと仕立物を請け負ったものの、二軒分ともなれば量も多い。多いのはありがたいが、夜なべ夜なべの毎日になった。しかし、その甲斐あって、僅かずつでも、また蓄えられるようになり、ほっと胸をなでおろした。
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先の見通しが立ち、気持ちも落ち着いてきたある日、ふと周りに目をやった。風は冷たいけれど、もう冬とは名ばかりの春の陽だまりがそこにあった。季節は巡り、あのかけがえのない子を亡くしたあの頃のように、また、春が来る。
佐吉は相変わらずの放蕩三昧だが、近隣の者は、以前ほど冷たい目で見ているようには見えない。赤ん坊の死に対する罪悪感からだろうか。それとも、財産をすべて奪いつくし、堕ちるところまで堕ちたのを見て満足したのだろうか。
ああ、あの子が生きていたら、どんなに生き甲斐のあることだろう。無事に育つはずの我が子を、産後の処置を知らないがために死なせてしまった。何で誰かに聞かなかったのか。何で誰か教えておいてくれなかったのか。
産婆を呼べばいい、誰もが、それしか頭になかった。悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。恨んでも、恨んでも、恨みきれない。
時には、自分が夜叉になったように思えることがある。そんな時、自分が自分でなくなるようで、たまらなく怖くなる。自分がこんな生き方をしていては、あの織物工場から、武志がせっかく助け出してくれた努力が無駄になる。和裁学校にまで行かせて、教授の免状まで取らせてくれた、あの比類のない行為が無駄になる。
さあ、こうしていても、あの子が生き返るわけじゃない。生きないかんのやったら、食べないかん。食べないかんのやったら、働かないかん。着物ば縫わんと。一枚でも多く。お父しゃんは何も頼りにならんのやから、わたしがせな。しょんなかしょんなか、しかたがない。
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