|
沙智子の高校退学以来、正夫の飲酒が目立つようになり、外泊もするようになった。飲んだ店でそのまま眠りこけているらしい。店から電話がかかっても、連れて帰って来る方法がないので、寒くもなし、そのまま寝かせてくれるように頼んだこともある。家にいて、沙智子の様子を見ているだけでも辛いのはわかるが、傍にいつもいる佳菜はもっと辛かった。 助けて良かったはずだ。本当に利口な子だった。自分の子とは思えないくらいだった。だから、何が何でも助けたかった。だからあちこちに借金までして回って助けた。それなのに、自分は、なぜ後悔ばかりしているのか。医者に診せなかったからか。しかし、診せていたら、ここにこうして住んでいられたかどうかもわからない。一体何のために今まで必死に生きてきたんだろう。
正夫も同様だった。傍にいる佳菜の気持ちを考えると、傍にいてやらねばと思う。しかし、家には沙智子がいる。自分の犯した間違いを突きつけられているようで、見ているのはたまらない。酒なと飲まずにおられるものか。
好きで結婚したわけじゃない。養子にでも入れば、楽だと思ったからだ。我慢していれば、いずれは、財産を継げるからだ。なのに、おしまいだ。何て無駄な人生だ。店の女はいい。金さえ払えばちやほやしてくれる。佳菜は昔から仕立物で稼いで俺より金を儲けてる。佳菜の金まで持ってくわけじゃなし、構うもんか。
しかし、店の女将にとっては、月給を全部飲んでくれる客はそういない。いい金蔓になると踏んで、どんどん飲ませた。給料前にはツケにまでしてやった。女遊びに縁がなかった正夫はそれを情と勘違いした。女将もわかっていて相手になった。自然行き着くところは決まっていた。女将のヒモが現れなければ、いつまでもズルズルと浮気していたことだろう。
ある晩、女将の浮気を知ったヒモが店に現れ、こっぴどく殴られて帰宅し、佳菜を驚かせた。次の日には、片目が塞がって開けられず、仕事も休んでしまった。これ以上近所の噂にならなければいいが。どうやら、浮気をしているらしいのは、噂で耳にしていた。その相手にヒモがいることも知っていた。言っても聞かないだろうし、言うつもりもなかった。痛い目にでも遭えば懲りるだろうと思ったからだった。
しかし、冷やしても腫れはなかなか引かず、引いたと思ったら赤や黄色の斑で人前に出られるものではなかった。結局二週間も仕事を休んだ。近頃は給料もくれないので当てにはしていないが、家にいられると、仕立物がはかどらないので、賃金が少なくなる。自業自得の痣ぐらいで休んでほしくはなかったが、男の面子があるのだろう。厄介なものだ。
正夫が工場に出ると、やはり、町工場では、尾ひれがついて噂になっていた。男達は冷やかし、
女達は軽蔑の目で見る。一日目は気が引けて言い返せなかったが、二、三日経ってもやめてくれない。社長までがわざわざ出てきて厭味を言い出した。
情けないのは自分でも解っているが、人からあれこれ言われたくはない。余計なお世話だ。仕事さえしてりゃ文句を言う筋合いはないだろう。そう思うと、とうとう堪忍袋の緒が切れた。言い返し始めると、止まらなくなり、大喧嘩になった。結局、「辞めろ!」「辞めてやる!」の応酬で終わった。工場での仕事も終わった。
また職探しか・・・。佳菜がまたあの軽蔑したような顔をするんだろう。家に帰るのも面白くない。面白くはないが、今は息子もいる。いつかは、我慢してりゃ、あの爺さんの財産をもらえるのだから。これが人生だ。職探しをする間、好きな釣りでもするか。結構釣れるから晩飯のおかずぐらいにはなるだろう。船がほしいな。猟師になるのもいいなあ。
案の定、佳菜はこれ以上ないくらい嫌そうな目で見た。浮気が悪かか。浮気される方はどげえか、と
言いたかった。しかし、分が悪い。佳菜自身が何かしたわけじゃない。沙智子があんな風にならなければ、あんな風になったばっかりに、後ろ指を差されることが増えた。見とれ。町工場なんかより、ずっといい、ちゃんとした仕事を見つけちゃあ。
博多まで行けば職安があるというので行ってみたが、今は職人仕事は少ないらしい。サラリーマン仕事ばっかりだ。営業は口下手だし、販売も上手が言えん。何とか職人仕事がないかいな。何度か来てるうちに出るかもしれんっちゃ言われたばって。まあ、どっちみち、探さないわけにはいかんとやき、また来るたい。いい年ばして、こだわる訳じゃなかが、ヒモ暮らしげなさるうか。男の面子が立たんたい。
|
|
大喧嘩した挙句辞めてからというもの、正夫の機嫌がすこぶる悪い。沙智子が怖がって近づかないのが有り難い。こんなときに近づいたりしたら、沙智子が殴られかねない。沙智子が悪いわけではないのだから。知恵はなくても、近づいてはいけないのはわかるのか。あれほど利発だった子が、何という変わりようだろうか。
正也が、時々沙智子を馬鹿にするのを見ると胸が痛む。本人は馬鹿にされてもわからないし、正也も悪気はないのだろうが、見ているこっちがたまらない。正也も可哀相に。こんな姉を持って。沙智子が死ぬまで面倒を見させることになるのだろう。それを思うと、悔やまれてならない。
こんな時こそ、正夫がしっかりしてくれなければ。二人とも働ける今のうちに貯金をしておかないと、正也が可哀相。お金があれば、面倒を見ることになっても負担が軽くなるから、少しは心強いだろうに。長男に生まれたばかりに全てを残されて、嫌なことまで背負わされて。念願の男子だったのに、やっと生まれたのに、何て皮肉なものだろう。
正夫は六才、沙智子はもう十七歳、美沙子は十九歳、真沙子は二十二才にもなっている。そろそろ、真沙子も嫁に行きたいだろう。上手く嫁に貰い手があればいいけれど。まあ、美沙子や沙智子と違って、しっかりしとるけん、心配はいらんかもしれん。美沙子はこの家を嫌がって大阪に行ってしまった。真沙子とはとことん合わんし、正夫の浮気も許せんかったんやろ。家ん中が安心なら、大阪にも行ってみたいなあ。今は全部懐かしいばっかりや。
|
これといった職がない。正夫は、仕方なく、職探しがてらに釣り三昧の日々を過ごした。二ヶ月がそうやって過ぎた頃、良さそうな仕事があった。自動車工場の仕事だが、車のボディを作っている会社で、良さそうな職人仕事があるという。
面接に行ってみると、物はすこぶる大きいが、似たような事をすればいいとわかった。会社側も、職人気質をわかってくれたようで、なるべく上手くやってくれと言われたくらいで雇おうと言ってくれた。給料も今までよりずっといい。見習い期間でさえ、一万ばかり多い。すぐ来てもらって良いというので、早速明日から働くことにした。
佳菜の驚く顔が見られるぞ。運が向いてきた。帰り道では、自然、顔がにやけた。佳菜も上の娘も喜んだ。真沙子は、これで人並みに嫁に行ける、そう思ったらしい。無理もない。もう、今度の仕事を最後にしよう。厚生年金や退職金もあって給料もいい。今迄で一番の仕事だ。正夫は喜んで仕事に通いだした。電車に乗って一時間以上かかるのも苦にならなかった。
ところが、他の職に就いているのに、今のままの家賃では困ると大家が言い出し、家賃を上げてきた。こんなボロ家に、と思ったがしかたない。いい仕事が見つかったと聞きつけて値上げしてきたのだろう。最初の給料も出ないうちに、今度は住む家を探さないかんとは。
しかし、佳菜が近所で耳寄りな話を聞いてきた。町営住宅が盛んに建っているので、応募したらどうかという。応募が多いとくじ引きだが、結構当たりやすいというので、上がった家賃を払いながら待つことにした。
ここはいい、と思った駅の傍は当たらなかった。川沿いも当たらなかった。空き家にも外れた。当たるんだろうか、と思えてきたとき、当たった。駅から歩いて三十分近くかかる。なに、自転車なら行ける。佳菜が言っていたが、息子にくじを引かせたらしい。子供は欲がないからな。息子が当てたんだ、住めば都たい。
|