人目を避けて会いに来たナミは、何度、追い返され、連れ戻されたことだろう。しかし、佐吉は育ちの良い坊ちゃんにしては色々な事ができたが、親には逆らえず、ナミを取り戻すことだけはできなかった。
好いたナミとの仲を裂かれたのは、まさに佐吉の血肉を裂かれたようなものだった。ナミが家を出てすぐよりも、日が経つにつれてより強く、ナミのいない寂しさが心をさいなみ、眠れない夜が続いた。佐吉の精神はずたずたになり、何をする気力も失っていった。
眠れないことがイライラを募らせ、ナミ恋しさを募らせたが、ツネはそんな佐吉を叱咤した。いつまでも女一人にかまけていないで、跡取りを作る責任を並べ立て、後添いをもらうようにと、再三叱りつけた。それでも、佐吉は頑として、再婚しようとはしなかった。
そのうち、ツネのやかましさを避けるように、佐吉は町へ出て遊ぶようになった。遊ぶといっても、成人した男のこと、飴代などの話ではない。芸者一人呼んでも、弱小地主の小作料は高が知れている。瞬く間に身代が傾きだした。しかし、ツネが何を言おうと、耳を貸さず、言えば言うほど、出歩く始末だった。
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![]() 半年後の秋も終わりのころ、ナミの再婚の話しが出ていると、人伝に聞いたツネは、孫を引き取ることを考えた。佐吉はもう何を言っても聞こうとしない。娘が手元に来れば、少しは父親らしくなるかもしれない。どうしようもなければ、あのナミの娘ではあるが、佐吉の血も流れているのだから、孫は女でも、養子をもらって家を継がせることもできる。
ツネは、仲人をした孝蔵の父蔵人を訪ねた。蔵人も佐吉の最近の行状に顔をしかめていたが、ツネの話を聞き、それが良いだろうということになった。蔵人は、折を見て、なるべく早く佐吉の娘を引き取る話を持ちかけてみようと申し出た。ツネはホッと胸をなでおろして家路に着いた。
![]() しかし、蔵人がナミの実家に何度も足を運んだが、頑として首を縦には振ってはもらえなかった。孫の佳菜可愛さというよりも、ツネへの恨みが大きかったのだろう。とはいえ、ナミの実家では、新年を、親戚の目に晒される実家で迎えさせるに忍びず、年内に嫁に行かせるのだという。
ナミの婚姻が目前に迫ったころ、蔵人は再度足繁くナミの実家に足を運んだ。その甲斐あって佳菜が返されることになったと蔵人が知らせに来たとき、ツネは小躍りせんばかりに喜んだ。ツネのしかめっ面しか見たことのない蔵人は、佐吉の行状を思い、夫を亡くしたツネの苦労を思った。
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![]() 師走の中旬、ナミの祝言の二日前になって、やっと、佳菜が、蔵人と佳菜の伯母であるヨネに抱かれて、父佐吉と祖母ツネの元へと返されてきた。ナミがなかなか離そうとしなかったので、可哀相に思った実家では、祝言の直前まで置いておくことにしたのだという。
「おかあさん、ほうら、可愛いかやなかね。女ン子はほんなごつ、生まれた時から可愛いかたい。」
「まあ、そげなこつ、言うてからに。ばってん、ほんなごつ、可愛いかばいねえ。ほら、ばあちゃんばい。今日からここんちの娘ばい。やああ、わろうた、笑うた。」
「こいで、ちいっとは、安心でくうたいな、ツネさん。佐吉ぁんがこんで親らしゅうなんなったげな良かが。」
「ほんなごつ、有難うござした。嫁に出した先の舅さんが良ござしたけん、お蔭さんで、こん家が潰れんですみますたい。」
ツネは一目見るなり、孫娘が気に入った。乳を良く飲んだのだろう。丸々として、よく笑う。よしよし、良い子だ。さぞ器量良しになるだろう。『ばあちゃんが育ててやるけん。早う大きうなるとぞ。』日に何度もそう言いながら、はいはいする孫娘に、目を細くして手を差し伸べた。
しかし、佐吉は返されてきた佳菜を見るなり、部屋に閉じこもった。ナミの娘である佳菜を見た途端、佐吉の脳裏にナミの笑顔が浮かび、身を引き裂かれるような辛さがまざまざと思い起こされた。佐吉はナミに腹を立てた。ナミが再婚し後添いになるということに、そもそも腹が立った。
暫くは不気味なくらい物音も立てず、部屋で悶々としていたが、いきなり襖を開けてツネを呼びつけ、金をあるだけ出させると、ふいと家を飛び出し、丸三日戻ってこなかった。
それ以後も、佐吉は、佳菜を見るたびにナミを思い出し、身を切られるような辛さを思い出した。佳菜が可愛くないわけではなかったが、ナミとの思い出に耐えられなかった。自分がそれほどにナミに溺れているのが信じられなかった。しかし、ナミはもう人妻になってしまった。
![]() 佐吉は佳菜を見ることができなくなった。佳菜がはいはいしているのを見て、ふと足を止めたりはする。しかし、佳菜が近寄ると、大声で怒鳴ってツネを呼びつけた。佳菜はその声に驚き怖がって泣き出し、ツネは佳菜が泣き止むまで懸命になだめた。佐吉は、父親としての愛情を全く注ぐことができなくなっていた。
ツネは、男子を産むこともできなかった嫁に、いつまでも固執している息子の不甲斐なさを情けなく思いながらも、孫娘を溺愛した。女でも孫は孫、どうしようもなく可愛かった。目に入れても痛くないというのはこのことだと、近所の話の種にもなった。
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![]() しかし、ツネは、孫娘は可愛いが、男子の跡取りも諦め切れず、家に戻ってきた佐吉をつかまえては叱咤するのにも暇がなかった。
佐吉も、ナミにはもう手が届かなくなったのは充分わかっていた。それでも、自分が追い出したわけではない。母のツネは家のためを思ったのだろうが、跡継ぎなら次の子でも良かったはずだ。母はナミの出生が気にくわなかったのだ。
母は良家にしかない女紋を持って嫁に来た。女紋は家紋とは別に、代々の女子に受け継がれ、嫁に行くときは女紋を将来生むであろう自分の娘に伝えるために持って出る。そして、その娘が嫁に行くとき、自分がしたように、女紋を持って行かせる。
家柄というのは端で見ていると優雅なものだが、その継承となると、家柄を継ぐためだけに人が存在しているかのようだ。女紋などこの世になければ、ナミは嫁として迎えてもらえたのだろうか。自分の人生も家紋に縛られているが、家というのは人よりも大切なものだろうか。
同じ人でありながら、なぜこうも上下をつけなければならないのか。人間なぞ野生の動物の習い性を見習うが良い。自分は生まれる時代を間違えたのか。未来には上下のない時代が来るだろうか。いっそ、大昔のように、誰かの養女にすれば嫁にできるような時代であれば良かったのか。
先祖のだれぞと入れ替わってみたいものだ。しかし、それでは、ナミはいない。いや、出会わなければこんな思いもしなかっただろう。
生きてみようか、もう一度。再婚してみれば、案外、上手くいくかもしれない。ナミを忘れて、跡継ぎを作って。そうしたら、もう一度、この時代の人間らしく生きられるかもしれない。
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