ツネの死後、佐吉は神妙に家を取り仕切り、小作人の陳情にも耳を傾けたりしていた。周囲の者は、いつまた放蕩を始めるかとヒヤヒヤしてはいたが、無論、誰も口には出さなかった。口にすれば、すぐにまた放蕩が始まると思ってのことだった。
しかし、ツネの死後は、家事をする者を雇わざるをえず、家政の費用が嵩み、秋の収穫期までの家政さえ危ぶまれた。ヨネはできるだけ足を運び、佳菜に付き添って、掃除、火の熾し方や始末、料理など、家政の切り盛りについて教えた。佳菜も、自分でできるようになれることを喜び、懸命に覚えようとした。
![]() そのお陰で、ツネの死後半年ほどで、佳菜は何とか家政全般を取り仕切れるようになっていた。ヨネが時々様子を見に来れば良いくらいになると、親戚一同はホッと安心の息をついた。そして、収穫期が訪れ、小作人への支払が終わると、家政はやっと安定し、盛り返しの兆しを見せた。
家政も安定したことでもあるし、次の春には佳菜が高等小学校を卒業する。養子になる孝蔵の息子武志も中学を卒業する。そうなれば、佳菜を家政に専念させ、養子を迎えさせる準備に入ることができる。親戚一同は、今度こそ、肩の荷が降ろせるだろうと、二人の卒業を心待ちにした。
ところが、佐吉には佐吉の、別の心積もりがあった。佐吉は自分の人生を縛り付ける旧家に飽き飽きしていた。いや、憎んでいた。こんな家系は潰れてしまえ、とも思っていた。佳菜の卒業を待って働きに出し、自分の食い扶持を稼がせるつもりでいた。遠ければ遠いほど佳菜の顔を見ずにすむ。嫌な思い出ばかり思い出すこともなくなくなるだろう。そう思っていた。
しかし、日本の海外への侵略は止まるところを知らず、負けも知らず、国のリーダー達は度重なる勝利に酔い、なお極限を目指し、思想は軍国主義一色に統一された。その波は否応なく田舎にも押し寄せていた。
御国のため、天皇陛下の御為という触れ込みで、軍隊への供出が強要され、取り置いた予備の蓄えはもとより、家政のための一年分の米も例外とはされなかった。供出は、実際には強制的な徴収というべきもので、たちまち、米は底をつき、旧家とはいえ、ただの弱小地主の家政は、また火の車に逆戻りした。
米を隠そうとしない者はなかった。が、佐吉は頑固にそれをせず、世間知らずの佳菜一人では隠すこともできず、正直に「食べていく米が何もなくなあけん、少しでん残してもらえんですか。」と言うくらいしかできなかった。無論それが通るわけはない。小作人同士は互いに庇い合ったが、頼りなく落ちぶれた地主には、誰も手を貸そうとしなかった。
正直者はいつの時代も馬鹿を見る。それが佐吉の忍耐の糸を切ったものか、佳菜の卒業を待たずに、佐吉はまた出歩き始めた。
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![]() ![]() しかし、どの親戚も供出によって生活が逼迫し、そうそう佳菜の家への援助はできなくなっていた。ヨネも孝蔵も佳菜の様子を心配したが、他家の家政を賄うほどの財力はない。学校の費用は孝蔵が直接支払ってやり、精々、佳菜に日銭を渡してやるくらいしかできなかった。それでも佳菜は親戚の有り難さに、心底感謝した。
それでも、佐吉が戻ってくると、そのなけなしの金さえ持っていってしまう。佳菜はできるだけ隠すことを覚えたが、佐吉には敵わず、誤魔化しは殆どできなかった。佳菜は、家の横の畑に植えた、芋や南瓜などで粥を作って飢えを凌ぐしかなかった。ヨネは、握り飯を作っては、家政から捻り出した、少しばかりの米や野菜、僅かな肉などを持ってやって来て、佳菜を喜ばせた。
もうすぐ、もう少しで卒業できる。そしたら、どこかで働こう。ヨネ伯母しゃんや孝蔵伯父しゃんがどこかに紹介してくれるやろう。それまで、我慢せな。我慢しとかな。ばってん、寒かなあ。火鉢に火を熾しとうても、練炭もなかけん、寒かなあ。用ば片付けたら寝るとが一番たい。どうせ、お父しゃんは帰って来らっしゃれんやろう。
その佐吉は相も変わらず放蕩三昧ではあったが、存分に遊ぶ金があるはずもなく、算段に明け暮れていた。佳菜が卒業したら、遠くは遠くでも、大阪辺りの紡績工場が給料が良か。支度金も貰わるうけん、暫くは困らんですむ。そいに、工場やったら、遊びにゃあ行けんけん、金ば仕送りさせたら良かたい。今まで食わしてやっとうとやき、親に仕送りばすっとは当たり前やきな。そいが良か。
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![]() 春になり、佳菜は高等小学校を卒業した。やっと、自分で働ける。やっと、自分のお金で食べられる。お金も貯められる。そう思い、安堵と歓喜に浸った。ヨネ伯母しゃんが、孝蔵伯父しゃんが世話してくるうて言いよらしたけん、今日明日いでも、きちんと挨拶に行かな。お父しゃんが反対するわけはなか。そいどこっか、喜ぶやろうな。そいでん良か。働かな食べていかれんとやけん。
卒業式を終えて家に帰ると、珍しく佐吉が帰宅していた。その向かいには、見知らぬ客が座し、佳菜を見て満面の笑顔になった。
「良かお日和でござす。」
「ほんに、良か日和ですな。よう挨拶ばさっしゃあたい。」
「こいの祖母がえろう厳しう躾とりましたけん。」
「おお、そげんですな。良かこってすたい。佳菜しゃんやったな?お父しゃんな、ああたば、仕事につかしょうて言いよらっしゃあが。」
![]() 「仕事?仕事ば世話しに来らしたとですか?」
「そげえたい。どげえな?」
「はい、うちゃあ、学校ば卒業したら働こうて、思いよったです。」
「おお、そいなら、丁度良か。おいは大阪の大きか工場で働く娘ば探すとが仕事やき。」
「工場て、どげな仕事やろか?うちにでくうやろか。」
「ああ、そいなら心配いらんけん。向こうでちゃんと教えてくるうけん。」
「そいたら、すぐ、伯父に話してきますけん。仕事の世話ば頼んでしもうとうけん。」
「あちゃ、おいはすぐ行かなとたい。次はいつ来うかわからんばい。」
「ばって、伯父がうんて言わなて言われとりますけん。えろう世話になっとうし。」
「そげんこつ。待っとらす身にならんか。お前が帰ってくうまでえらい待ってもろうたとぞ。」
「ばって、お父しゃん。」
「良かたい。おいが挨拶ばちゃんとしとくたい。」
「ばってん、大阪げな、遠かけん、ヨネ伯母しゃんにお別れば言うて行きたか。」
「贅沢ば言うてから!行李にゃあ大体んもんな詰めとるけん、足らんもんば急いで入れてこ!」
「うん・・・。すんましぇん。えろう待ってもろうてから。急いで用意しますけん。」
「ああ、良かった。そげえしてくれんしゃあな。ほなら、待っときますけん。」
佳菜が奥に用意をしに引っ込むと、口入れ屋は佐吉に向かって満足そうに頷き、支度金の残り半金を渡した。佐吉は、僅かなためらいを感じながらも、それを懐にしまいこんだ。しかし、佳菜が旅支度を済ませ、行李と風呂敷包みを持って出てきた時、ナミの嘆き悲しむような顔が頭に浮かんだ。
自分は娘を売るつか。いや、ナミを思い出すけん遠ざくうだけたい。そいなら嫁い出しゃあ良か。いや、親戚は、佳菜に養子を取らせようてしよる。今家を出さんやったら何処にもやれんたい。ナミが、ナミさえ傍におったら・・・。おやくっさまが氏神さんて言うたちゃ何ばさっしゃる。何もさっしゃりゃせん。
![]() 「ほなら、体い気いつけるとぞ。」
「お父しゃんも、体い気いつけてつかあさい。伯母しゃんや伯父しゃんにもよろしう言うてつかあさい。」
「わかっとうたい!おいが言わんて言うとや!」
「そ、そげんこつなか。おにい・・・武志しゃんにもよろしういうてつかあさい。」
「わかっとうたい!ほら、待っとらっそうが!」
佳菜は、行李を持ってあげようと言う口入れ屋に礼を言って行李を渡し、口入れ屋とともに駅へと向かった。口入れ屋は愛想良く何くれとなく気を使い、列車に乗る前に駅前のうどん屋でうどんまで食べさせた。しかし、列車が動き出すと、その愛想の良さはガラリと一変し、佳菜に残酷な真実を告げた。佳菜は声もなく涙し、小学校を卒業したその当日に、非常な過酷さで知られるという大阪の織物工場へと追いやる父の仕打ちに打ちのめされた。
ああ、お父しゃんは、そげえ、家に置いときとうなかくらい、うちを遠くにやりたかったったい。そやき、ヨネ伯母しゃんや孝蔵伯父しゃんに別れの挨拶もさせてくれんやったっちゃね。大阪は遠か。一人では帰ってききらんかもしれん。こげな列車に乗るお金も貯めきらんかもしれん。もう、お兄ちゃんに会うこともできんかもしれん。列車は故郷を遥かに遠ざかる。佳菜は諦めるしかなかった。
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![]() 武志が、中学の卒業証書を手に、意気揚々と故郷への帰途に就いたのは、その僅か数日後のことだった。
帰郷した武志が、すぐさま佳菜に会いに行こうとするのを、孝蔵とヨネは必死で止めた。孝蔵は、歯軋りしながら、佐吉の仕打ちを武志に語って聞かせた。まさか佐吉が実の娘を売るような真似をするとは思わず、死んだツネに何とも詫びようもない、と繰り返し悔やんだ。ヨネは泣きながら息子に詫びた。武志は佐吉の仕打ちに激怒し、父の孝蔵が止めなければ、佐吉を殺しかねないほどに逆上した。自分がもう少し早く帰郷できていたならと悔やまれた。
絶対に佳菜を救い出してやる。何としても金を作ってやる。そう決心した武志は寝る間も惜しんで働いた。そして半年後、武志は大阪へと向かう列車の人となっていた。
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