五月ともなれば、日本海の南端、玄界灘の荒波が起こす爽やかな風とともに、木々が若葉をいっせいに芽吹かせ、海沿いの村々に初夏の清々しさを運んでくる。
特にここ数日は、この村の神社の年に一回の夏祭の準備で盛り上がり、村中にうきうきとした気分が広がっている。毎年、五月十五日から三日間、神社のある山の麓から中腹にある神社まで出店がずらりと並び、子供も大人も久し振りの開放感を味わって楽しむ。
神社の本来の社はもっと山の上にあり、海辺の崖沿いの険しい細道を登るのだが、今日から三日間の祭の間は、麓に近い所にある中腹の社まで、神社のご本尊のほうに降りていただく風習になっている。それでも参道というくらいの距離があり、年寄りには結構きつい坂道になる。
![]() ![]() 午後になっていたので、朝から始まっていた祭は盛り上がってきていた。出店も結構繁盛しているようだ。この出店がないとしたら、ひどく寂しい祭だろうな、などと考えながらそぞろ歩いた。祭の日になるといつのまにか出店が集まってくる。
年に一度の祭ともなれば、子供に僅かなりとも小遣いをやる親が多い。小遣いを貰ったとみえる子供達が、嬉しそうに出店の方へ駆けていく。
自分にもあれくらいの時があったが、あんなに楽しそうにしたことはなかったなぁ。地主の子供というのは孤独なものだった。母のツネから、小作人の子供と遊ぶものではないと、何度叱られたことか。それでも遊び相手が欲しくてそっと家を抜け出したものだ。
小作人の親達もいい顔はしなかったが、追い返しはしなかった。子供達も行けばまあ仲間に入れてくれていた。遊んでくれなくなったのは何時の頃からだっただろうか。自分は、近隣の村では誰も行ってなどいない中学にまで進学した。一方、小作人の子供達は小作の仕事をし、いつの間にかろくに話もしなくなってしまった。
祭自体は特になんということのないただの村祭なのだが、佐吉のような若者にとっては、いつもより着飾った娘達を眺めることができるわくわくする日でもあった。佐吉はのんびりと祭の賑わいの中に入って行った。
佐吉ももう二十二歳、そろそろ母親のツネから嫁をもらうようにせっつかれている。しかし、嫁を貰うといっても、選ばせてもらえるわけではない。親が選びに選んだ末にこの家のこの娘にしろというのだから、会ってみれば十人並み以下ときている。器量も頭も悪いわがまま娘など真っ平ごめんだった。
ふいに横から聞こえた屈託のない笑い声に耳を奪われた。若々しい、見れば、晴れ着を着た娘が二人、連れ立って歩きながら笑いさざめいている。この娘は何て良い笑い顔をするんだろう。よく見ると、二人とも小作人の娘ではないらしい。結構上等の着物だというのが男が見てもわかる。
佐吉は何となく嬉しくなった。顔を見ただけで話もしていない娘に妙に惹かれてしまっている。話しかけてみたいが、もう少し後をついて行ってからにしよう。その気になれば、この娘は小作人の娘とは思えないから、母のツネも首を縦に振るかもしれない。家柄があまり悪くないといいが。
母はことのほか家柄にこだわる。田舎にしてはまあまあでも、世間では大したことのない財産ではないか。後生大事にしてどうなるというのか。まったく母ときたら。家の存続がそんなに大切なことだろうか。食べていければそれで良いではないか。家が墓までついて行くわけでもあるまいに。
![]() |
![]() ![]() そんなことを苦々しく考えていたものだから、娘達とはぐれてしまった。きょろきょろと辺りを見回すが見当たらない。まあ、いいさ。神社で会えるかもしれない。いや、ぜひ、もっとあの声を聞きたい。急いで行って待っていようか。そうすれば行き違いにはならないだろう。これくらいの楽しみがなくては、田舎暮らしなどできるものか。
そう決めてしまうと、祭の賑わいなど楽しめるものではない。若者の足には、この程度の山道などどうということはない。若い佐吉の足は自然に速くなった。すぐに神社の境内が見えてきたが、娘達の姿はやはりなかった。
佐吉はのんびり待つことにしたが、何食わぬ顔でぶらつきながら出店を冷やかしていても、内心はじりじりしていた。娘達の様子では、急いで登って来る風ではなかったから、行き違いのはずはないが、もしかすると、ここまで来ずに帰ってしまわないだろうか。
不安は不安を呼んでしまうものだが、佐吉も例に洩れず、下まで戻ってみようかと思い始めていた。どうせ一本道だ。祭なのだから、出会ったところで引き返してもおかしいことはないだろう。そうだ。それがいい。そう思ったとき、華やかな色合いが目の端に入ってきた。
娘達は笑いさざめきながら、いかにも祭を楽しんでいる。ああ、待った甲斐があった。やっぱりあの娘は良いな。笑顔が良い。それに、何とも楽しそうだ。こんな娘が毎日帰りを待っていてくれれば、仕事のし甲斐もあるというものだ。そう思うと、相手の気持ちはお構いなしに、上手くいくと思いこんでしまいそうになる。
母に頼むしかないのだから、どこの娘か確かめておきたいが。少し様子を見てから、話しかけても良い。余所者ではなし、祭なのだから、ちょっと話すぐらいはいいだろう。名も知らないでは、頼みようがないのだから。
![]() ![]() 小作の年寄り連中が知っているだろうから、いれば聞くんだが、誰にでも聞くと厄介な尾ひれがつくかもしれない。無理強いすることになったら、あの娘は笑ってくれないだろうしな。
今度は見失わないように気をつけながら、見知った人間を目の端で探していると、いた。信頼できる打ってつけの人間がやって来る。佐吉は嬉しくなった。実に幸先が良い。姉ヨネと夫の孝蔵が甥の武志の手を引いて神社の境内に入ってきたところだった。孝蔵なら寄り合いにも出ているし、知っているに違いない。
娘達はまだ出店を楽しんでいて帰りそうにない。佐吉はちらちらと娘達を見ながら、姉夫婦に近づいた。
|