佐吉が佳菜に見向きもしない分、周囲は佳菜を気遣った。将来婿をとって代々の旧家を継ぐことになるかもしれない娘でもあり、それらしい育ちと意識を持つように育てねばならない。祖母のツネはもとより、伯母のヨネも伯父の孝蔵も、娘がいないこともあって、その息子達と同じように可愛がった。
孝蔵夫婦の長男武志は佳菜の従兄に当たるが、佳菜を血を分けた妹のように可愛がった。佳菜を母なし子と言っていじめる者がいると、母虎のように庇い、毎年のおやくっさまの夏祭りには、浴衣を着た佳菜をの手を引いて、山道を登り下りした。年嵩で利発な武志が庇っているので、小学校に上がるころには苛められることも少なくなった。周囲の者は、何と微笑ましいことよと言ったものだ。
後添いのタミが来たときは皆安堵したものだが、それも束の間で、佐吉の放蕩のせいで、継子イジメされるのを可哀相に思った。ツネが何かと庇ってはいたが、佳菜はだんだんと引っ込み思案になってしまい、学校の先生の話では、学校でもあまり笑わなくなったという。唯一楽しそうな笑顔を見せるのは、従兄の武志が遊んでやっているときだけになってしまったのが不憫だった。
佳菜は武志を「お兄ちゃん」と呼んで慕った。姉妹もいず、適当な家の遊び相手もいないので、唯一の遊び友達でもあり、それこそ、武志の後をついて回った。武志にとっては、面倒なときがないではなかった。佳菜が可愛くてしかたがないので撥ねつけたりはしなかったが、自分の友達と過ごすために、かなり苦心して佳菜に言い聞かせたものだ。
「佳菜、今日は俺ん友達と、釣りに行くけん、岩場やき危なかたい。大人しう家で遊びより。また、遊んでやるき、な。」
![]() 「・・・うん。佳菜はついて行かれんと?お友達が怒んさると?」
「いや、怒りゃあせんばってん、釣りばしよったら、佳菜と遊ばれんたい。声も出されんし、水遊びもできんけん。佳菜あ、つまらんめえ?」
「釣りばしよったら、横で遊んだらいかんと?」
「そげえたい、皆、晩飯のおかずば釣るとやき、横で遊んだげな魚が逃げるけん、釣れんやったら困るったい。佳菜も、おかずがないとにご飯ば食ぶうたあ、いやじゃろ?」
「うん、おかずがある方が、ご飯がおいしいけん。・・・そいたら、家で遊びよるけん。」
「ええ子じゃ、いっぱい釣れたら持ってきてやるきな。」
「ほんなごつ?いっぱい釣るうかいね?いってらっしゃい、お兄ちゃん。」
「ああ、行っちくうばい。」
武志は、佳菜の頭をくしゃくしゃっと撫でて背を向けた。佳菜は、その従兄の背中を見送りながら考えた。小作の子と遊びたいが、おばあちゃんにえろう怒らるうやろなあ。楽しう遊んどうのに、何で遊んだらいけんとやろか。ばってん、お兄ちゃんも家で遊びよけて言うたきな、と思いなおすと、佳菜もくるりと従兄に背を向けて、家の中に入っていった。
武志と佳菜のやり取りを家の中で聞いていたツネの思いは複雑だった。同じ年頃の子がいないわけではないが、遊ばせるには家の格が違いすぎる。妙なことでも覚えてきたら、親戚中の笑い者になる。覚えのないことでさえ、女子は後ろ指を指されるのだから、わかっていてさせるわけにはいかん。この家のために、後々の佐吉のために良かれと思ったことが裏目に出てしまった。
佐吉に後添いさえあれば、ちったあ構ってやり手もあろうが。しかし、他にどんなやりようがあっただろうか。ツネとて力のない女子の身、この家の親戚と実家と、両方に恥をかかせないようにするにはこうするしかなかった。また後添いをもらっても、佐吉があれでは、また同じ目に遭わせんとも限らない。結局、佐吉が改心してくれない限り、ツネが佳菜を育て、育つまで長生きするしかない。
せいぜい長生きして、佳菜にこの旧家を継がせなければ、この家は潰れてしまう。男子ならば、家のために腹をくくって生きるのが当然であるものを。あれが必死で育て上げた息子の生き様か。女子なぞ、ほんに何とつまらんものか。孫の佳菜も女子ではあるが、家付き娘なら少しは生きやすかろうか。せめて少しでも多く財を残してやらねば。
![]() |
![]() 武志が釣りから帰ってきた。三尾しか釣れなかったというが、佳菜に食べさせてやってくれと、そのうちの二尾を持ってやって来た。一尾だと佐吉の口にしか入らないだろうと思ってのことだった。
ツネはそんな武志の心根に感心した。ヨネと孝蔵さんはなるほど上手くやっていけているようだ。でなければ、武志があれほど良くできているわけがない。ヨネが良い夫を持てて良かった。それだけでも、同じ女子として、母として、この上なく有り難い。
![]() 武志の声が聞こえたのだろう。佳菜が勝手口まで飛んできた。
「お兄ちゃん!お帰りなさい!」
「佳菜、ただいま。」
「お兄ちゃん、お魚いっぱい釣れた?」
「う〜ん、そいがな、あんまり釣れんかったたい。」
「うわ〜、つまら〜ん。ばって、こん魚は?」
「ははは、つまらんて、そげえ言わんで。ちったあ釣ったとばい。ちゃんと佳菜に持ってきてやったとばい。おばあちゃんに煮てもらいんしゃい。」
「わあ、おばあちゃん!佳菜もお魚食べて良かとやろか?お父しゃんから怒られん?」
「良かくさ、武志兄ちゃんが、ちゃあんと佳菜の分ば持ってきてくれとるきな。」
「おばあちゃんとは?」
「そげえいっぱいは釣れんやったとたい。良かとよ、今度また持ってきてくるうたい。なあ、武志。」
「うん、そげんたい!」
「じゃあ、佳菜とおばあちゃんと半分こしょう!おばあちゃんもご飯がおいしかよ!」
「佳菜あ、偉かな、そうたいな、二人ともおいしか方が良かもんな。」
「うん!ね、おばあちゃん。」
「ああ、ああ、佳菜あ、優しかなあ。んなら、おばあちゃんと半分こしょうなあ。」
「うん!お兄ちゃん、あいがと!」
「ああ、佳菜が良か子やき、また、釣ってきちゃるきな。」
「うん!」
「孝蔵さんに、あんたんお父さんに宣しう言うてばい。あんたがたんとばくれなってから、て。」
「うん、そいじゃ、こいで。佳菜、明日、学校から帰ったら、遊んじゃるきな。」
「うん!待っとう。お兄ちゃん、さいなら。」
従兄の武志がいてくれることを、佳菜を可愛がって遊んでくれることを、ツネは何度有り難いと思ったことだろう。もし、自分が死んでしまっても、武志はヨネの息子でもある。佳菜が成長するまで、親子で見守ってくれるだろう。捨てる神あれば、拾う神有りと言うが、まこと世の中は憎くもあるが、有り難いものであることよ。
![]() |
![]() それから、数年後、武志が中学に進学することになった。佐吉も田舎では珍しく学力優秀で中学まで行ったが、その甥である武志も大変に優秀な学力を収めていた。武志が遠くの中学の寮に入るというので、佳菜が行かないでくれと泣いて頼むのを、武志は懸命に宥めていた。
「佳菜、おいも佳菜を置いていくとは寂しかとよ。ばってん、中学ば行ったら、偉うならるうけん、佳菜ば嫁にもらいに来らるうばい。おいの嫁にならんとや。」
![]() 「お兄ちゃんのお嫁に?」
「そうたい、佳菜のお父しゃんは中学ば行っとうとに、おいが小学校しか行っとらんやったら、嫁にくれて言われんたい。そやけん、我慢せんな?」
「・・・うん・・・、ほんなごつ、お嫁にする?」
「ああ、ほんなごつ。」
「うん、したら、我慢すう。」
「偉かな、佳菜。約束ばい。佳菜もおいに負けんごつ、ちゃんと勉強せなばい?」
「うん!お兄ちゃん、いってらっしゃい。」
「ああ、行ってくうばい。おばあちゃん、佳菜んためにも長生きしてばい。」
「ああ、ああ、わかっとう。頑張って行ってきない。」
いつものように、佳菜の頭をくしゃくしゃっと撫でて、武志は顔を背けた。五年か、長かなあ。卒業んころは佳菜は小学校ば卒業しとうが、佐吉おいしゃんは、佳菜ば家に置いてくれとるやろうか。おばあちゃんがおるばってが、もう年やけんなあ。おばあちゃんがちゃんと生きとってくれりゃあ良かが。
おいは従兄ばってが、佳菜ば、養ってやりたか。ちいったあ、佳菜ば楽しか目えさせてやらにゃあ。五年、必死に頑張って勉強してこなたい。武志は後ろ髪を引かれながらも、将来のために中学へと進学した。
|