厳しい和裁の学校を終了して、教授の免状が貰えた時、武志は迎えに来た。佳菜はうれしさを隠しきれずに、喜んで帰郷の途に就いた。この、昔から優しい従兄だけは、絶対に私を守ってくれる。武志がいれば安心していられる。武志が寮に迎えに来たときの嬉しさを、佳菜は生涯忘れないだろうと思った。
「武志しゃん。武志しゃん、迎えに来てくれたつね。」
「ああ、迎えい来たばい。ちょっとばっかい痩せたばいね。どげえか辛かったとばいね。ばってん、女子らしゅうなってから、ほんなごつ綺麗かばい。」
佳菜は武志の方言丸出しの率直な賞賛に頬を赤らめた。そして、いよいよ帰郷できるのだという喜びを実感して涙ぐんでいた。そんな佳菜に武志が心配そうな声をかけた。
「どうしたとね、佳菜しゃん。こん学校はそげえ酷かったとね。」
武志は、佳菜が答えないで泣き出したのを見て、余程悲惨な目に遭っていたのかと、後悔の気持ちと共に怒りが湧き上がってくるのを堪えた。声を押し殺して言う。
![]() 「嫁入り前ん娘ば預かっとってからい、文句ば言うてきちゃあ。」
佳菜は慌てて、どうにか声を絞り出した。
「違う、違うとよ。福岡に帰らるっとが嬉しゅうて涙が止まらんとたい。」
「ほんなごつね。」
「うん、そげえ。嘘やないとよ。」
武志はほっとした気持ちで佳菜を改めて見つめた。佳菜も優しい従兄をこれ以上ないくらいの慕わしさを込めて見返した。武志は、佳菜の、美しい年頃の娘らしいその愛らしさに見惚れた。佳菜のほうも、武志こそ、生涯で誰よりも自分を大切にしてくれる男ではないかと感じ始めていた。
「さあ、帰るばい。長居は無用たい。汽車の時間があるけんね。ていうても、ちょっと見物する時間くらいはあるとばってんが。こげな戦争の只中ばってん、折角大阪に来たとやけん、このまんま帰るともつまらんけんね。佳菜しゃんも見物なんてろくにしとらんっちゃろう?」
「うん、しとる暇なんてなかったたい。」
「よか、見物ばしょうな?佳菜しゃん。」
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![]() 佳菜の荷物はもうまとめてあったが、柳行李一つと風呂敷包み一個だけだった。それを駅の手荷物係に預けると、二人は駅周辺をそぞろ歩いて、ささやかな見物を楽しんだ。
弁当を買い込み、汽車に乗り込んで、空いた席を見つけて座り込んだ時、やっと、佳菜は実感できた。自分は故郷にささやかな錦を飾るのだ、と。女の身ではこれで充分ではないか。何もかも武志のお陰だった。武志が助けてくれたからこそ、故郷に帰ることができるのだった。
「佳菜しゃん、疲れたろう?少し眠んしゃい。荷物はおいが見とくけん。」
「ばってん、武志しゃんも疲れとるとやき、先い寝て。」
「何ば言いよんね。佳菜しゃんは何年も辛抱してきたっちゃけん、今、ちょっとでん取り返さな。」
「あいがとう。そげぇなら、武志しゃんが眠とうなったら起こさなばい。」
「ああ、眠とうなったら起こすき、寝んしゃい。」 そんなやり取りの後、佳菜は眠る努力などする必要もなしに、一分と経たないうちに寝入ってしまっていた。ふと目が覚めると、車内は薄暗く、窓の外は真っ暗で何も見えなかった。武志が自分をじっと見ているのに気づいたが、なぜか目を合わせにくかった。しかし、目が覚めたのに、いつまでも見ないわけにはいかない。今度は、代わって武志を眠らせてやらないと。
「ご免ね、武志しゃん。こげん寝てしもうてから。」
![]() 「よかよ。疲れとうっちゃき。弁当ば食ぶるね?」
「うん、そげぇいやぁ、お腹が空いとうや。ばってん、武志しゃんはまだ寝らんと?」
「一緒い弁当ば食うたら寝るたい。ほい、食いんしゃい。」
ただの握り飯ではあったが、本当においしかった。
「ああ、おいしかった。ごっつぉぅ様。」
「ああ、うまかったばい。水ぁいるね?」
「うん、あいがとう。」
「さあ、おいもちょっと寝とこう。何かあったらすぐ起こすとばい。大きな声でんよかけんな。」
「うん、解ったばい。叩いてでん起こしちゃあけん。」
「なんな、おいば叩こうてな。」
「ばってん、武志しゃんな、昔ゃあ、一辺寝たら呼んだて起きゃあせんやったとやき。」
「そげえやったかいな。しょうがないたい。佳菜しゃんやき許しちゃるたい。ちゃんと起こすとばい。」
「うん。お休み。武志しゃん。」
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![]() 武志も疲れていて当然で、すぐにいびきをかき始めた。これでは少々叩いても起きてくれるかどうか疑わしいものだ。いや、佳菜が叫べば、武志は間違いなく飛び起きるだろう。それくらいでなければ、佳菜をここまで構ってくれる筈はない。
佳菜は他の乗客に目をやった。皆疲れきった顔をしているが、一人旅の者は、荷物が心配で眠ることなどできはしない。目が覚めたら丸裸になっていること請け合いなのだから。連れがいる者は、やはり交代で眠っている。戦争ばかり続けてきたせいで、日本中が慢性的な物不足に喘いでいる。どこであろうと、ちょっと目を離せば置き引きに遭う。
ほんなごつ、人間はしょんなかなぁ。そんなことをぼんやり考えていると、眠くなってきたので、社内に時々目を走らせながら、思い出を手繰って時間を潰した。幸い何事もなく時間が過ぎ、武志が目を覚ましたとき、空はもう白みかけていた。
「お早う、佳菜しゃん。よう寝たばい。佳菜しゃんな、もう一辺ちょっと寝とかんね。」
「うん。もう一辺寝とこうかいな。・・・。帰ったっちゃ、ごろごろしとられんき。」
「そうたい。佐吉ぁんも近所ん者も、相変わらずやけんなぁ。・・・。博多い着いたら、何か旨いもんば食わしちゃるけんな。・・・。言いとうないばってん、覚悟して帰るとばい。」
「うん。よう解っとう。・・・。」
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![]() そうは言ったものの、武志に言われるまでもなく佳菜にも解ってはいたが、故郷に帰ったからといって、楽ができるわけがなかった。佐吉は相変わらず放蕩を続けているし、家屋敷以外のめぼしい土地は、全て僅かなお米に換えられてしまっていた。そのうえ、落ちぶれたのをいいことに、今までの恨みを晴らすように、村八分扱いまでされていた。
佳菜には信じられないが、遠い昔に住み着いた余所者だという意識が、大いに災いしているらしい。源平の頃であり、平家側になるらしいが、外国人でもあるまいに、ご大層なことだ。この地方の豪族に匿われたというのだから、ある程度の地位にあったらしい。世が世なら、というところか。
この地に根付き、地元との血縁を築いてきたのだから、血の殆どは地元民だろうに、人間とはなんと頑ななのだろう。今は落ちぶれているが、余所者に支配されたという思いが影響しているのだろうか。それとも、支配者が落ちぶれたからこそ、恨み心が嵩んでなお疎ましいのだろうか。
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![]() 佳菜が故郷の家に落ち着くと、武志はしばしば訪れ、何かと優しくしてくれた。周囲の者は、武志が佳菜を嫁にする心算だと思って、余計なことは言わず見守っていた。が、武志が近しい親戚とはいえ、家の台所事情にまで手は出せないし、佐吉が相手ではそうそう口も挟めない。
佳菜は食べていくために早速和裁の技術を役立てた。有難いことに、必死で身につけた技術は、小さな町の呉服屋で結構評判になった。教授の免状を持っているのも珍しかったのだろう。手間賃は都会ほどではないが、仕事が途切れることはなく、食べていくのに困らない程度にはなった。
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