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Mosaic Box
梅之ゆたか著
小説ファンタジー詩集歌集
概要・登場人物: 櫂はあるけれどあるが儘におやくっさま
空襲警報大阪へ和裁学校帰郷結婚別離出産虚空再起

「・・・しゃん、佳菜しゃん。空襲警報が解除いなったばい、大丈夫な?家まで帰りきるな?」
自分を呼ぶ声に、我に返ると、防空壕の中だった。現実がぼんやりと戻ってきた。ああ、空襲警報が鳴って、避難してきたんだった。
「あ、よかです。ちょっとばっかい、ぼやっとしとったもんやけん。」
佳菜は、そう言ってゆっくりと立ち上がって、壕の外に出た。自分の一生は、武志しゃんに救うてもろうたとやき、今は、お腹の子を立派に産むことを考えな。武志しゃんが帰ってきたときに、喜んでもらうとやき。
二週間が過ぎ、臨月に入ると、もともと太ってはいなかったものの、ぽっちゃりとしていた佳菜のお腹は、動くのも億劫なほどになっていた。いつお産が始まっても不思議ではない。佳菜は、わくわくしたり、お産が心配になったり、張ってくるお腹を感じて、不思議な興奮に包まれることが多くなっていた。
今日は朝から晴れ上がっていた。近所の農家はみな喜んで田畑に出ているだろう。佐吉も遅い筍を堀りに山に入るという。それを聞いた佳菜は何となく落ち着かなかった。嫌な予感がする。お腹がいつになく張っているような気がする。
佐吉に、『今日は行かないでくれ』と頼んだが、それでも佐吉は山に行ってしまった。佐吉が出かけてしばらくすると、お腹が痛み始めたような気がする。怖くなり、じっと動かないように横になった。しばらくは治まったような気がした。が、午後になると、今度は、はっきりとした痛みが間隔を置いてくるようになった。これが陣痛なのだと、佳菜は身を震わせた。
佳菜は考えをめぐらせた。家には誰もいない。近所の家も皆田に出ているだろう。近くの田に誰かいないだろうか。近所に留守番をしている者はいないだろうか。いつもなら近所の主婦が結構様子を見に来てくれるのに、今日は忙しいとみえて、誰もやって来ない。痛みがだんだん強くなり、我慢できる自信がぐらついてくる。佳菜は焦りだした。今日に限って誰も来ないなんて。

陣痛の合間に近所の家に行ってみることにしよう。今の状態では一番近い家まで五分はかかるだろう。陣痛がその間に起きないことを願いながら、佳菜は立ち上がった。大きなお腹を抱えるようにそっと足を運ぶ。
佳菜は、母もおらず、初産でもあり、お産の知識をまったく持っていなかった。一人でお産をすることなどできはしない。しかし、産婆の自宅はここからは遠すぎる。だが、近所になら行くだけの余裕はまだある。家に誰か残ってくれていればいいけれど。そうすれば、産婆さんを呼んできてもらえる。
恐る恐る外に出ると、日差しは春だが風は少し冷たいようだった。こんないい天気でなければ、近所の主婦も訪れてくれただろうに。一番近い近所までの距離が永遠にも思えた。やっと辿り着いたが、家には誰もいなかった。そのすぐ隣の家にも誰もいなかった。その他の家は遠すぎる。
周りの田畑を見渡したが、人の気配はない。皆どこにいるのだろう。陣痛は一層激しくなってきた。こんな、他所の家の玄関口でお産をするわけにはいかない。家に帰ろう。ひょっとしたら、佐吉の気が変わって、家に帰っているかもしれない。そんなありもしない希望を抱いて、佳菜は自宅へと向った。
帰る途中でまた陣痛が来て、道端にしゃがみ込んだが、半分寝転がるような形になった。痛みと恐怖で、身体中から汗が噴出す。これ以上なかったくらいの強い痛みが襲う。いきまないでいようとしても、できない。まさか、こんな道端で産む羽目になるのだろうか。そう思ったとき、悪夢のような陣痛がやっと収まった。
佳菜は、こわごわ、ゆっくりと立ち上がり、また、自宅への道をたどった。佐吉が帰っていると思いたかった。しかし、やっとの思いで帰り着いた家に、父の姿があろうはずがなかった。かなの家には電話などなかった。当時、電話があるのは、田舎では余程裕福な家だった。無論、産婆の家にもある筈がない。
できるだけゆっくり動き、布団の上に転がるように横になった。このままお産をすることになるのだろうか。陣痛の間隔も短くなり、痛みも激しくなってきた。これ以上動き回ることなどできそうにない。自分にできることは全てしたけれど、事態は少しも良くなっていない。かといって、諦め切れるわけがない。誰かが来てくれることをひたすら祈った。

このまま誰も来てくれんままお産をすることいなったげな、赤ちゃんはどげぇなるっちゃろう。武志しゃんの赤ちゃん。武志しゃんにはもう二度と会えんとに。二人にとって、たった一人の大事な赤ちゃんやとに。どうして誰も来てくれんと。
運を天に任せるなどいう気持ちにはなれそうもなかった。佳菜は絶望を受け入れるように、深い溜息をついた。誰も来ないまま、陣痛は殆ど間がないほどの間隔になってきた。痛みで意識が遠のくような気がして、お腹の底から吐き出すように、呻き声を出した。
「何で誰も来てくれんと!早く誰か来てぇ!武志しゃんの赤ちゃんば助けてえ。武志しゃんは死んでしもうたき、武志しゃんの赤ちゃんはこん赤ちゃんだけとよぉ!」
何度これまでかというような痛みに襲われただろう。それでも、まだ赤ん坊は生まれていない。生まれないうちに誰かが気づいてくれるのを願わずにはいられない。しかし、また、激しい痛みが襲ってきた。いきみを止める間もない。激しい痛みと共に、意識が遠のいた。
下腹の辺りに熱いものが広がるのが感じられ、ぼんやりとした意識の中で、痛みが消えていくのが感じられた。お腹が軽くなったような気がする。赤ちゃんが生まれたんだ。武志しゃんの赤ちゃんが。どうしたらいいんやろう。赤ちゃんが生まれたら、どうやったらよかとやろう。誰も教えてくれんやった。そのうち、また痛みが襲い、すぐに治まった。
赤ちゃんは生まれていなかったのかと思ったけれど、赤ん坊はとうに生まれていた。必死で鉛のように重い頭を上げて赤ん坊がいるはずの方を見ると、血の海の中に、血まみれの赤ん坊が、力なげに泣き声もあげずに横たわっていた。
佳菜はどこからそんな力を出したのか、手を添えて、足を少しずつ立て、少しずつ横に動かし、少しでも赤ん坊をよく見ようと、身体をずらした。身体を横向きにしたまま、佳菜は赤ん坊を見つめた。泣き声はしない。しかし、手足が弱々しく動いている。生きている。ああ良かった!まだ生きている!それでも、自分はどうしたら良いのだろうか。このままでは赤ちゃんが死んでしまう。
佳菜は、気が狂いそうだった。狂ってしまった方が楽だった。誰か、誰か助けて。どうしたらよかか教えて。なしてこげえ肝心なときに誰もいてくれんとよ。肝心なときにいてくれんとなら、何もしてくれんのと同じばい、と、恨まずにはいられなかった。
知っているあらゆる限りの悪口雑言を心の中で並べ立てながら、佳菜は泣いていた。私は赤ちゃんの生まれた後の処置も知っとらん。着物なんか縫えても、赤ちゃんの産み方も知らん。ああ、こげんときにお母しゃんがおったら。

なんでおばあしゃんはお母しゃんを追い出したっちゃろう。そいでも、お父しゃんさえ、放蕩ばせんでくれとったら、こげぇな目に合わんで済んだとやろうに。そうたい、お母しゃんが追い出されたたぁ、うちが男ん子じゃなかったけんたい。うちのせいやったたい。お母しゃんはうちのせいで追い出されたったい。
なんで女ん子じゃいけんとやろ。赤ちゃんは女しか産めんとに。おばあしゃんだって女やったとに。女は損ばい。男ん子が産めんやったら、追い出されてしまうとやけぇ。

赤ちゃんは男だろうか、女だろうか。はっとした佳菜は起き上がろうとしたが力が出ない。しかし、佳菜は確かめたかった。こんな時なのに、こんなことが気になるなんて。この異常な事態で、母親が足入れ婚で追い出されたことを思い出したからだろうか。
抱いちゃりたか。もう動いとらんごたるが、死んでしもうたとやろうか。起き上がってせめて抱いちゃりたか。赤ちゃん、お母しゃんばい。赤ちゃん、武志しゃんの赤ちゃん。お母しゃんはここいおるばい。誰か、早う来て。早う助けて・・・。赤ちゃんが死んでしまうたい。

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