![]() 床上げが済んで、縁側に座った佳菜は、何とも言いようがないくらい虚ろな状態で、自分の手が、いもしない赤ん坊を求めているのを感じていた。数日後、佐吉は、産後初めて佳菜に会い、佳菜に謝った。
「…家におらんで悪かったばい。これからはこげぇなことはせんけんが…。」
佳菜は生まれて始めて父親に謝られた。この時代の父親が子に謝るのはないといっていいだろう。しかし、たった一人の父親であっても、どうしても許せなかった。 いくら謝られても許せんたい。これからはていうたちゃ、これからがあるわけがなかろうが。どげぇ謝ってもろうたっちゃ、もうあの人の、武志しゃんの子は絶対に産めんとやけん。生き返らしちゃったら許しちゃるたい。
佳菜はろくに口も利かず、勿論返事もろくにしなかった。佐吉も佳菜の気持ちを思って無理に許すとは言わせなかった。もともと佐吉とて、好いた女房との仲を母親に無理に裂かれるまでは、育ちの良い優しい坊ちゃんだったのだから。
親やけん、口に出してから、めちゃくちゃに言われんばってん、どげえしたって、あの子は絶対生き返ってこんとやけん。うちゃあ死ぬまで親ば恨んどうっちゃろうなぁ。こいからどげぇして生きたらよかっちゃろうか。ほんなごつ狂うてしもうたほうが楽やろうたい。なして、うちは狂うてしまわんとやろか。
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![]() 何をする気力もない毎日を送りながら、佳菜は母親に会ってみたいと思い始めていた。母親になり損ねて、改めて母に会って見たい気持ちが首をもたげてきたのだろう。母は再婚するために自分を手放さなければならず、佐吉の元に置いていったという。進んで手放したわけではないのだから。
私の赤ちゃんのごと、母親ん顔も知らんまんま死んでしもうたら悲し過ぎるばい。二人とも死んどらんとなら会える日もあるかもしれんし。生きていかないかんとやけん、いつの日いか、会うてみよう。
死んだ赤ちゃんのこたぁ思い出す度に泣くやろうけど、死なんやったとやけん、もう一辺生きる気持ちになったちゃよかやろう。自分がお産して解ったばってん、お母しゃんはほんなごつ大変な思いばしてうちば産んでくれたとやけん。
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![]() ![]() 赤ん坊がいなくとも、佳菜は床上げまでは動くに動けなかった。武志の命を受け継いだ、大事な一人息子を死なせてしまったという後悔と自責の念が、身体の回復を遅らせた。床に就いてはいるが、しばしば目に涙を浮かび、便所に行こうと起き上がる度にめまいに悩まされもした。
それでも、時というものは有難いもので、床上げには通常一月ほどかかるが、その頃にはどうにか落ち着いたようだった。
佳菜は、生きる気持が挫けそうになると、自らに言い聞かせた。自分は、武志が男としての心を砕いたたった一人の女だ。その夫も子も死んで、悲しいのは当たり前、それでも生きている者は死んではいけない。武志が守ってくれた命なのだから、と。
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![]() 床上げが何とか無事に済むと、佳菜は手に抱くことの叶わなかった子供の墓に向かった。家の裏山の中腹辺りに、村の墓が集められている。
昔は海だったという裏山は、海から少し離れているのに、登る小道も熱い砂に覆われ、砂に足を取られて歩きにくい。五月の初夏の日差しの中、小石を置かれただけの小さな墓は木陰に守られているが、風はそよともしていない。木がないところは、登ってきた小道と同じで、陽に照らされた熱い砂で覆われている。
それでも佳菜は寒気を覚えてぞくりとした。脳裏に赤ん坊の死んでいった様子がありありと浮かんできて、佳菜は声を上げて泣き崩れた。泣きながら、赤ん坊に話しかけた。
![]() 「赤ちゃん。名前もつけてやれんで、ほんなごつ御免ばい。武志しゃんと、お父しゃんと会うたね?優しかろう?よか男やろう?あんたのお父しゃんばい。うちゃあ、もう抱いちゃられんばってん、お父しゃんにいっぱい甘ゆっとばい。うちも会いたかばい。あんたいも、武志しゃんいも会いたかよぅ・・・。ばってん・・・勘弁ばい・・・。」
どうしようもないことだと解っている。しかし、泣くだけ泣き、言うだけ言ったが、それでもまだ去り難かった。
陽が沈みかけた頃、佳菜はようやく立ちあがった。汗と涙でじくじくした手拭いを握りしめて、墓を後にした。
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