どれくらいの時間がたったのだろう。佐吉の声がした。近所の人の声もする。佳菜は血の臭いのしない布団に寝かされているのに気づいた。そして、すぐに自分が一人でお産をしたことを思い出した。赤ちゃんは助かっただろうか。
すぐに声を出して誰かを呼ぼうとしたが、その声は喉で詰まったように出てこない。悪い予感が声を出させなかった。佳菜はしばらく無言のまま思いを巡らせた。赤ちゃん。武志しゃんの赤ちゃん。大切な赤ちゃん。そして、思い当たった。赤ちゃんば抱いちゃらな。
![]() ![]() 「お父しゃん…お父しゃん…」 声が弱いのに自分でも驚きながら、父を呼んだ。近所の主婦がすぐに顔を出した。
「ああ、奥しゃん。目が覚めたばいね。ようござした、ようござした。」
「赤ちゃんは、赤ちゃんは生きとうっちゃろか。」
近所の主婦は顔を背けて、涙ぐんだ。その瞬間、佳菜は悟った。ひょっとしたらと願う気持ちは、佳菜の気力と共に、一瞬で真っ暗な穴の底に落ちていった。
「死んだとですね。」
「可愛そうに、御国の為になる立派な男ん子やったばい。お手柄やったとばい。佐吉つぁんもなんでこげな日に筍掘りなんて行かしたかねぇ。もう、硬かとしかろくに生えとらんやろうに。うったちゃあ、田ぁが忙しゅうてから来ちゃられんやったもんやけん。猫ん手も借りたいくらいやったとよ。」
そう言って佳菜の手を取り、啜り泣きながらさすり、慰めるように付け加えた。
「ばってん、どげんしたっちゃ助からんやったかもしれんばい。物凄か血でねぇ。床下まで血が染み通っとたとばい。普通のお産じゃあ、あげぇいっぱいの血は出らんけんねぇ。奥しゃんだけでも助かったけん良かったとて、産婆さんも言いよらしたばい。」
それは本当だろうか。佳菜にすれば、自分も一緒に死んでしまっていたらよかった、赤ちゃんと一緒に武志の傍に行けたのにと思わずにはいられなかった。主婦が何か話しかけたが、佳菜は一点を見つめたまま放心していた。主婦は一言言うと静かに出て行った。
「奥しゃん、気ぃばしっかり持たないかんばい。生きとったら、またそのうちぃ、御国の為い元気な赤ちゃんば産めるごと、元気になるとばい。まぁだ若いとやけんが。」
その一言は、逆に佳菜を打ちのめした。何てね、何ば言うてから。武しゃんが死んでしもうたとに、もう産めるわけがなかったい。どげぇして産めちゅうとね。
![]() |
![]() ![]() その夜、物静かな伝令が何気なさそうに、しかし、数十分のうちに素早く招集をかけていた。皆、明かりも持たずにそっと裏口から出て、小一時間で、佐吉の家までやってきていた。
家の外からは玄関の明かりも消されていて、雨戸も閉められている。村中が集まっているようには見えない。いつもと違うのは、表の見える部屋で、息を殺して真剣に外の様子を見張っている者がいることだ。そう、憲兵に届けもなく集会を開いているのを見つかっては困るのだ。村中の家々が、寝静まったように見せかけていた。
佐吉は、佳菜の寝かされている部屋から、一番遠い部屋にいた。そこには、村中の人間が来ている。産婆の顔も見える。男達は皆、一様に苦虫を噛んだような顔をしている。落ち着かない様子で、男達の結論を待っている。
こういう悪巧みの手際の良さは民族芸に匹敵するのではと皮肉りたくなる。御国の為というならば、親が親なのだから、臨月の佳菜に対してこれほどの執着を見せていれば、こんな事態を招かずに済んだだろう。
が、心の底でこういう事態を望んだ者がいたとしても、何ら不思議ではない。恨み重なる地主の家の落ちぶれた放蕩者の娘のお産なのだ。所詮他人事にすぎず、火が降りかかったら揉み消せばいいのだから。皆が面白くもないことで顔をつき合わせているのは一目で判る。
つまり、佳菜が男子を産んだが、その子は村人の保護の下で、きちんとしたお産で生まれる筈だった。それなのに、臨月に入っているというのに、万一の時の産後の処置も教えないままだった。また、一日中誰も訪問も付き添いもせず、家人もおらず、産婆に知らせに走る者もなかった。その挙句、何も知らない若い母親だけで産むはめになり、赤ん坊を死なせてしまった。その届けを出さなければならないからだった。
村人の胸中は様々だった。村八分といえど冠婚葬祭は差別をしないものだから。ましてや、分家とはいえ、代々の地主を暗黙のうちに村八分にしたうえ、出産の手助けもせず、その跡取りをみすみす死なせたとくれば、他の村ではなんと取り沙汰されることか。そんな心算はなかったと言っても通るものではない。
それが憲兵相手ではなおのことだ。家柄云々はさて置き、男子を不注意で死なせたことが判れば、佐吉だけでなく、村中が憲兵に引っ張られることにもなりかねない。考えられないことだが、この時代ではまぎれもない現実だった。
![]() |
![]() ![]() 佐吉の放蕩をいいことに村八分にしていても、妊娠中の佳菜の様子を見に近所の主婦が来ていたのは、それがあったからに他ならない。それを、たった一日くらいという気持ちが畑仕事の忙しさを優先させ、選りによって、最悪の状況を招いたのだ。佐吉の放蕩は今に始まったことではない。佳菜を可愛がっている様子も、気遣っている様子もない。皆周知の事実だった。
村人が佐吉のせいにすることはできる。しかし、世間と憲兵がそれで済ませてくれるはずがない。何しろ、赤ん坊は男子だったのだから。
長引いた戦争で戦死者が増え、男の人口が異常に減っていた。男子は未来の『お国の兵隊さん』というので、男子を産むというのは非常に名誉なことだった。元々男子を産まないと役立たずの嫁として扱われていたのが、戦争で一気に加熱状態になってしまっていた。
事実をありのままにして、憲兵に村人全員が捕まるわけにはいかなかった。捕まれば命の保障はない。父の佐吉を含めた男達は、眉をひそめながら密談を交わし、結論を出した。女達は勿論、産婆もそれに従った。これは、死んだ赤ん坊に、罪を隠し持っていってもらう以外にないということになったわけだ。
密談は佳菜以外の人間に都合の良いように決着がつけられた。佳菜が寝込んでいるうちに全てが処理された。村中が口裏を合わせて、『赤ん坊は死産だった』と、役所に届け出た。
![]() |
![]() その後しばらくの間、佳菜の床上げが済むまで、産後の肥立ちに障るというので、佐吉は産婆から佳菜と会うのを止められていた。お産の際の出来事を佳菜が思い出すのを極力避けるためだった。
産後に気の病にかかる者もままあったからだ。女性は抑圧され、『三界に家なし』の時代が延々と続いていた。女性への思いやりのない時代の妊娠出産は、女性の心身に非常な負担をかけていた。
産後の肥立ちは心配されたほどには悪くはならず、ほぼ順調に回復していた。佳菜は床上げを控えて、床を庭の見えるところに移してもらい、起きている時間を、部屋から庭を眺めて過ごした。
|