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登校拒否は病気じゃない。しかし、ただ登校しないだけでもない。登校したくても体が動かないのは、決して本人の意思ではない。身体に傷がなくとも、心に大きな傷があり、それが生存本能を発揮しているのだから、本人を責めるのは筋違いで、『生存本能が鎮まる環境』を用意すればいい。
死んでしまいたい、外に出るのが怖い、布団の上から体がピクリとも動かせない。起きて歯を磨いて食べて風呂に入って寝る。たったそれだけの日常の動作が全くできない。それほどに深い心の傷を、生存本能が守ろうとするのは自然の摂理だろう。理解できないのは理解する気がないからではないのか。 自分がそれほどの危機に見舞われないから、全ての人もそうだと言えるのか。身に置き換えて考えれば、子供でもわかる。言えるはずがない。考えが甘いというのもおかしい。昨今のように、野生動物顔負けの闘争本能をむき出しにし、高等生物である人間の特性を捨てることこそ、否定しようのない甘えではないのか。
普通のケガなら、治れば自然に動き出す。子供であれば、親の心配をよそに、治ってもいないうちから動きだす。だから、今はまだ動けないのだと、なぜ思えないのか。たとえば、足のケガが治っても歩けなかったりするのは、医学的に認められている。ならば、自殺者の出るイジメのほうが傷は『死ぬほど』深い。なぜ認められないのだろうか。
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![]() 社会は怠け者と決めつけて、叱咤し無理に動かそうとする。過去のことは忘れろ。『いつまでも子供じゃないんだから』ということばをよく聞く。しかし、それはイジメられっ子には当てはまらない。幼稚園や小学校の低学年からのイジメは、延々と継承されて止むことがない。そんな大事が無視されている。そこに人として成長する余裕があるだろうか。あるはずがない。
人として育つ過程を踏んでこそ、人は人として健やかに成長できる。それを与えなかった社会には、その責任がある。それを無視して年齢だけを指すべきではない。『いつまでも子供じゃないんだから』と言うべきでもない。その過去を埋めあわせることがどれほど困難でも、それをせずに責めることこそ甘えている。 楽しいはずの子供時代はイジメられて過ぎ、学校にも行けない。親類縁者には一方的に責められ、つきあいを断たれる。未来の夢は根こそぎ奪われる。それが生きていると言えるのか。そんな生き方を強いられ、そのうえ、「まだ生きてるじゃない」と罵倒される。地位や学歴に関係なく、実に多くの人が同じ言葉を口にする。死んだら生き返れないのに死んでから来いと嘲るのは、差別発言でもタチが悪い。
そういう人こそ、公衆の面前で散々な暴言を吐かれ、身に覚えのない汚名を被せられた挙句、「まだ生きてるじゃない」と、実際に嘲られる体験をさせるべきだろう。発作的に自殺したくなるかどうかはわからないが、相手に殴りかかりたくならない人がどれほどいるだろう。日本中の教育関係者もバーチャルにでも体験すれば教育姿勢が変わるだろうか。 暴言を吐かれた相手が実際に自殺したり、暴言の吐き主を殺そうとはしない、と、暴言の吐き主は思っているのだろうか。そういう人間ほど、殺されかけると大声で殺される殺されると、自分の罪を総棚上げする。他人をいたぶって高揚感を感じるような最低のモラルしかない。
素面でこういう暴言を吐くのを聞くたびに、イジメが犯罪にならないという現実を、断じて許せないと思う。
[ 2006.3.18 ]
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![]() ![]() フトンから動けんよ。 頭もあがらんよ。 くっついとうごたあよ。 ぼく何もしとらんよ・・・。 どうして? どうしょう・・・。 いいんよ。身体が動きとうないて言いよるんよ。 いいんよ。 学校行かんで。 きつかったね。 ごめんね。 もう、いいとよ。 |
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『登校拒否』、『不登校』。 自分の意思で行かない? 危険を感じて行かない? 好きで死ぬ人はいないし、殺される人もいないもの。 誰だって安全な逃げ道が見つかるまで隠れたいよね。 |