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人は、人にとって良いところのない慣習や習慣を諾々と守り続けていることが結構あったりする。そして、自分以外の人には良くないことばかりであっても、それを悪習だとは認めない。
一方で、一社会人として、人の命や健康に大きな危険があったり、病気を悪化させたりする場合には、間違いなく悪い習慣であり、無くなってほしいと強く思う。しかし、それを現実の習慣に結びつけて考えたとき、人の命や健康に大きな危険があったり、病気を悪化させたりする、そのこと以上に、習慣や慣習が絶対的に優先されてしまったりもする。
人の命を脅かす悪習は、悪習として認識される前に、社会に悪習か否かを問われることなく蓋をされてしまう。それをこじ開ければ、非難、中傷、村八分の憂き目に遭う。
古くからの習慣や慣習は、国やその地方の風俗、地域の有力者の利益などと密接に繋がっている。選挙の投票率を下げる原因になることもある。
社会的には犯罪にならなくても、被害を受けた側にとっては、一生にかかわる大問題であることは少なくない。社会の習慣なんだから我慢すべきだ、などと、良き社会人として良き意見を述べたつもりの口上には、開いた口が塞がらない。なぜなら、悪習は、犠牲者が得をすることは何一つないのだから。
悪習を改めない人々は自分の損得しか頭にない。が、その悪影響が我が身に降りかかっても甘受するのだろうか。
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![]() 初めて社会に出て仕事を始めると、人は、自分の言葉や行動の、反省と、見直しと、手直しを嫌というほどくり返すはめになる。それをくり返しながら、仕事を覚え、より効率よく仕事ができるようになり、それで生活をし、食べていけるようになる。それを考えると、より良い環境を子孫に伝えるというなら、当然、国政も同様にしないと、子孫繁栄など雲の彼方に消えてしまう。
人の思考の道筋は十人十色でも五十歩百歩、人であるかぎり想像に難くない。これを社会の出来事に当てはめると、大小に関係なく当てはまる。その動きに納得がいってしまう。
慣習だから、習慣になっているから、自分が不便になるから、という理由で、人の命や健康をおびやかしていい権利は誰にもない。そういう悪習をやめるか、やめないかで、その社会の質の良し悪しが浮き彫りになる。
悪習は無条件に無くすべきものであり、新しい良い習慣を見つけなければいけない。それらは、いたるところで注目を集める公僕達のお手本如何に左右される。御題目を唱えるだけなら誰にでもできる。
[ 2007.2.5 ]
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変な決まりがいっぱい!何で良くしないの?
誰かが大変なら、みんなが良くなるように変えればいいのに。 きまりだから?決まりはぜったい?何で絶対?だれがきめたの? 皆で決めたんじゃないの?皆で決めたんなら、皆で変えようよ。 決まりを守る人を守るための決まりなのに、決まりを守る人が一番損するの? |