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「一見さんお断り」そんな文句が頭に浮かぶ。高給料亭に無縁な庶民がそんな断り文句で玄関払いをくらうことはまずない。しかし、「客商売」は客を大切にすることで成り立つはずが、「…してやってる」といわんばかりの対応によく出会う。
いつも重い小銭を持ち歩くのはなかなかに煩わしい。しかし、支払う段階になって初めて小銭の持ちあわせがないことに気づくことも多い。そこでイヤミタップリに応対されるか、よくあることと気持ちよく応対されるかで、その個人の人柄や地域性が印象に刻まれてしまう。店側が小銭の用意をするのは大変でも、客商売であれば当然のリスクでもある。
消費者に負担を負わせるのが当然のような風潮は何かおかしい。客は買ってくれるのであって、買わせてやるからつり銭のないように持ってこいというのは、お役所や病院の窓口だけでたくさんなのに。ネチネチと「お金持ちやから…」と言われたりすると、二度と来るものかと思う。後日も、たとえ必要でも、その地にはなかなか行く気にならない。
ことに気持ちを休めるためにそぞろ歩く観光地でそんな目に遭うと、その地域やそこに住む人々全体への興味が一瞬で冷めてしまう。その後はもう何を見ても何をしても白けて楽しめない。後日どうしても必要で訪れても、悪印象ばかりを思いおこし、厚意であろう行為や、それまで好意を感じていた知人の心根さえ疑わしく思えてしまう。
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![]() 昨今は人の立場を思いやってことばを選ぶ人が少ない。時代がそうさせるのか、社会がそうさせるのか。イジメにあったからといって、イジメないわけでもない。差別されたからといって差別しないわけでもない。失言を差別というには無理があろうが、失言が人を貶めることもある。何気ないことばが人を傷つけることも少なくない。失言に気づいたものの、フォローしようとして墓穴を掘ることもある。それでも、それに気づく人はそれほど多くない。
働ける人が小銭を用意するのは、常に小銭を持ち歩くよりも大変なことだろうか。
働ける人が小銭を用意するのに、足が痛み、腰が痛み、肩が痛む、くらいはあるとしても、頭痛に悩み、寝込んだりするだろうか。不健康な体というのはそこまで人の身体を痛めつけるが、それでも、外との接点なしには生きられない。
交通事故が日常茶飯事のこのご時世、重いものを持ち歩けない人は多い。背負うのは足腰肩の負担になり、腰にぶらさげるのは足腰の負担になる。鍛錬になるならともかく負担でしかなければ持たないようにするしかない。荷物は少ないほうがいい。財布の中身は…少ないのは困るけれど、軽いにこしたことはない。
相手に負担を強いれば自分が楽になる。そこにあるのは自分の権利と相手の義務であって、自分の義務と相手の権利はない。そこに臨機応変の思いやりがほしい。
「売ってやるんだから」「診てやるんだから」「…してやるんだから」。しかし、その仕事がやりやすいように準備を整えるのは本人の仕事の下準備であって、他人の仕事ではない。小銭を準備していくという行為は、それができる個人の、相手が楽なようにという思いやりであり、義務ではない。病院は治療優先が何よりだからしかたがないともいえるが、役所も小銭を持たずに行くと露骨に嫌な顔をされる。お役所は偉い?という変な固定観念があるが、それにあやかりたいのか、妙なところを見習うものだ。
[ 2007.6.7 ]
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何かに1度成功すると、心のどこかが、つい安心してしまう。まだ油断できないと、もう二度と失敗しないというのではないと、重々承知していながら。
美容院などでは、初めての客にはまた来てほしくて懸命に腕をふるうが、2度目になると、これでこの客を捕まえた?という安心感からか、決まって手が抜ける。料金が安くても高くても安心できない。敷居の高い店では客を見て?手を抜かれる。鍋をかぶったような頭にお金を払うくらいなら自分で切ったほうがまし。
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