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類は友を呼ぶ。悪い意味で使われることも多いことばだけれど、優れた人の周りには優れた人が集まる、という意味あいでも的を得ている。上に立つものが優れていると、その傘下には優れた人材が起用される例えでもある。何事も、上に立つ者の器量に左右されるのは仕方のないことと言えるだろう。 人が《出る杭を打つ》気を起こすのは、まさに出ようとするその杭が、すでに自分を超えた、あるいは、いつか自分を越える、その恐れを感じるからに他ならない。その杭が、自分の、あるいは、社会の支えになると思えるほどの自分であれば、《出る杭を打つ》必要はないのだから。何のことはない。人は己が怠け心にそそのかされて、あるいは、優れた杭に不足なものとされるのを恐れて、《出る杭を打つ》道を選んでいるにすぎない。 正義感やまじめさを《良い子ぶりっ子》とするイジメやイビリの心理にもそれは顕れている。《良い子ぶりっ子》であろうがなかろうが、正義感やまじめさが歓迎されるべきことに変わりはない。《悪い子ぶりっ子》で悪事や不真面目が横行するなら、良い結果をもたらすだろうか。現に、《悪い子ぶりっ子》で悪事や不まじめに目をつむり、正義感やまじめさをあざける時代を経た今、良い結果がもたらされているだろうか。《良い子ぶりっ子》大いに結構、それで結果良しなら何ら不都合はないのだから。
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![]() 人がみな、《出る杭を打つ》ことばかりしていると、社会を発展させるべき優れた人材の芽を片端から摘んでしまうことにもなる。くり返しになるが、その杭が、自分の、あるいは、社会の支えになると思えるほどの自分であれば、《出る杭を打つ》必要はないのだから。社会のさらなる発展を望むなら《出る杭を打つ》べきではない。
《出る杭を打つ》者こそ打たれるべき存在といえる。また、それがわからないほど愚鈍ではないのに、こぞって、それをさせまいとする社会はこのうえなく救い難い。うわべの言葉やスローガンに関係なく、子孫により良い社会を引き渡す努力を惜しむ者には、私利私欲に溺れるだけの者には、傲慢にこの世を謳歌する資格などない。
また、たとえ《良い子ぶりっ子》であろうが、《悪い子ぶりっ子》であろうが、その結果が出た後では、良くも悪くも、周囲の認識と期待は簡単には揺るがない。《ぶりっ子》の返上も簡単にはできなくなっていて、その《ぶりっ子》を続けるか、どこか知らない土地で出直すかを選ぶことになるだろう。《良い子ぶりっ子》なら、どれだけ蔓延ってもらってもかまわないではないか。 知恵と力を持つならば、子孫が無為に死に至ることのない、正義と優しさが普通に存在する社会を引き渡す努力を惜しまず、霊長類としての最高の誉を胸に抱いて生涯を終えることを望まないではいられないのではないか。それを蔑ろにする全てのものを廃棄しないではいられないのではないか。それが人というものではなかったか。
[ 2007.1.28 ]
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![]() ![]() 人は妬みの煩悩を持つ。スケープゴートという言葉は、それが合法的に成立することを指している。大きな不正の煙幕となる小さな不正。その対象は間違いなく有罪であることになるが、真実は関係ない。隠されたものは第三者には見えないのだから。だからこそ、スケープゴートが成立する。出る杭が打たれる時、いくつもの不正が八方から絡め獲りにかかる。(これはイジメの心理そのものでもある。)
人の社会が、隠された不正を疑らずにすむ社会であったことなどあっただろうか。まして、お手本の公僕の不正が後を絶たない社会では言うまでもない。権威=正義でもない。無実なら大丈夫さ、という考えは、強大な不正の前ではカモネギでしかない。人の欲には限りがない。誰もがそれを見抜き救おうとしなければ、いずれ自分の番がくる。
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ゴキブリが怖い?それが何をするって?命を奪う?未来を奪う?そりゃあ、クモはクモでも日本に生息しないはずのタランチュラなら命が危ないけど。そんな珍しいものよりも、ずっと身近で、何より一番怖いもの。限度を知らない『ヒト』の利己心。程度によっては地震にだって劣らない。
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