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人が同じように並んで立っていても、立っている場所は少し違う。それを、立場が違う、という。立場が違うと、同じものを見ても、見ている場所が違うから、違って見える。
同じ国に生まれても、話すことばが同じでも、親子でも、兄弟姉妹でも、双子でも、他人ならなおのこと、同じものを見るとき、その立場は同じではない。だから、感じることも違う。だから、自分以外の人の立場を考える力がないと、ひどい誤解をしたり、されたりすることにもなる。
ましてや、多勢に対した場合、多勢のなかの多数しか見えないことが多い。逆に、自分が多勢の中に紛れて、見てほしいように見てもらえないことも多い。人は、自分が多勢に紛れて悪く見られるのは我慢がならない。しかし、他人が多勢に紛れて見えないと、多勢の中の多数と同じにしか見ようとしないことが多い。
そうならないようにするためには、人の立場に立って考える力が、このうえなく重要になる。 人の立場にはなり切れるわけがない。それを、敢えて、立ったつもりでよく考えて、人にはどう見えたのか、人はどう感じたのか、想像する。そして、人にも自分の感じたことを伝えて、誤解がなくなるように、人の立場を思いやる、という努力をくり返す以外にない。
それがなかなか上手くいかないのは、人の立場になりきれない以上、当然ではある。大人だから、偉い人だから、お金持ちだから、貧乏人だから、強いから、弱いから、優しいから、・・・だから、上手くいくわけではない。
うまくいけば仲良くできるが、うまくいかないと、戦争になることだってある。自分の正義に忠実であろうとする誠実さや相手のそれへの信頼が少ないと、人が人を本当に思いやるのはとても難しい。
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![]() 『未来を踏み躙られる』ということは、踏みにじられた者にしか解らないことが多い。そこにも、人を思いやることの難しさがある。
だからこそ、人は、人の過ちを許す心を持たなければならない。しかし、だからといって、未来を踏みにじられるがままになるべきでも、踏みにじったままでいて良いのでもない。 互いの気持ちや考えを、キャッチボールをするように、受け取り損ねないように、上手に行ったり来たりさせないと、取り損ねたボールのように地面に落ちてしまう。そして、その地面がぬかるみであれば、もちろん泥にまみれてしまう。
結局、思いやりは、必要であり重要なのは間違いない。けれども、自分が他人を思いやるだけでは、他人が自分を思いやるだけでは、役に立つとはいえないことになる。
思いやりが役に立つのは、思いやった相手が、同じように思いやってくれるときに限られてしまう。相手にこちらを思いやる気がなければ、相手を思いやった自分のほうが辛い思いをすることになる。思いやりが消えていきつつあるのは、そういう泥沼のような悪循環のせいなのだろうか。
[ 2006.3.18 ]
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言葉は魔物。常に気をつけてさえ、思いはなかなか正しく伝わらない。殊に、心が傷ついた人に伝えることはこの上なく難しい。どれほど仲が良かろうと、仲が悪ければなおのこと、親子であろうと、正しく伝わらないことが多い。誤解と知らずに怒り、縁を断つ。そんなことが人には往々にしてある。
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同じ思想と理想を持ち同じ枠の中で生きている人々には無償の愛を見ることができるが、それは枠の外にまでは及ばない。骨肉の争いが、宗教戦争が、あらゆる枠の内外の対立が、休みなく人の歴史を刻み続けている。
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あの子だって、あの人だって、八つ当たりでイジメてるだけかもしれない。だから、イジメられても我慢してあげよう。あの人のことを考えてあげなくちゃ。良い人になるんだから。
冗談?よね。他人に八つ当たりなんて、そんな権利、親にもないよ。王様じゃないもの。権利がないのにイジメるんだから、イジメる方が悪いんだよ。人は、人と思いあい助けあって生きてきたんだから。でなければ、人の寿命は延びたりしなかっただろう。 |