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強者のおごり

経験がないから理解できない、または、してもらえない。こういうことは、よくある。だから、人から聞いたり、本を読んだり、写真を見たりして、知ろうと努力する。そうすると、自分で経験しなくても、少しずつ、想像できるようになる。
それがまるでできない人は、残念ながら多い。自分が経験したこと、良い行いだと認めたことだけが全ての現実だと信じ、それ以外は、頭から認めない。そして、自分の周囲には暖かい人たちしかいないのだから、辛い目にあうのは、その人の性格や行いが悪いからだ、と簡単に決めつける。この考えが『強者のおごり』になっていく。

もっと人を信じなさい、まわりに合わせなきゃ、努力が足りないから、努力してないから、と言う。本心では、自分はできの良い人間だから、あなたとは違って、辛い目に遭わないんだ、と、相手をばかにしているのかもしれないが。
しかし、本気で、しかも親切心丸出しで、がまん強く言い聞かせるようにお説教する人がいる。よほど裕福なのか?温室でぬくぬくしていると、悲惨なニュースを見ても、現実が見えないのか?温室の温もりは思考力まで低下させるのだろうか。
日頃の行いが悪かったから、努力しなかったから、挙句に生まれつき《徳》が備わっていないから、その報いを受けている。真面目な顔でそう言われると二の句が継げない。毎日の悲惨なニュースを見ていながら言えるのか。未来が暗澹たるものに思える。
いくら自分が不自由していなくとも、現実を見ようとしない人々の有りようは中世の貴族社会を見るようだ。マリーアントワネットが言ったといわれる言葉は(実際には言っていないというが)、今も息づいている。現代社会は、絶対にそこまで堕ちていないと思いたいが、目の前の現実は否定のしようがない。
国民全員が裕福な国など歴史のなかにもありはしない。貧富の差は必ず存在する。全体の金持ち度を足して100%なのはどの国も変わらない。金持ちと貧乏人、強者と弱者、善と悪、比率は違うし、中間もあるが、全体では、足したらちゃんと100%になる。
エネルギーの量が変わらないのに、温室にエネルギーを使っていれば、どこかで寒さにふるえる人が出る。自分が、その人たちの分のぬくもりを使って温まっていることを、まったく自覚していない。その人たちは、何とかしようと努力するたびに、ことごとく、お金と権力に阻まれる。寒さに震える人たちには、お金も権力も、共に手を取りあう人も、守ってくれる人もいない。いたとしても、金の切れ目が縁の切れ目になる。

お金と権力を手にいれた人間は、歴史で何度もくり返されているように、国を滅ぼすこともできる。社会の強者として、社会を変える力を持ち、より良いリーダーシップを持つ責任を担うべき立場にある。
それを持つ指導者が先頭に立っていない社会は悲惨に尽きる。貧富の差が広がるのも当然だろう。他のどの主義が良いとも言えないが、資本主義社会の現実は不公平極まりない。
[ 2006.3.18 ]
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★一言★
昔、『平家にあらずんば人にあらず』。今、『金持ちにあらずんば人にあらず』。世界中が金を求めて血眼になっている。何をやろうと何を隠そうと、金を手に入れた者だけが天下を取れる。物事は善行では成し得ない。良からぬ行為によって金を得る者は平気でそう公言する。それらに政治が共生するなら、その国の行為には全て裏がある。
人の道に反する行いはどう取り繕おうと善ではない。それが支配するなら、人は人の道に反することばかりするようになる。明らかに叩けば埃が出る。それらの支配を拒めば共生者には疎まれるが、全ての人が等しく幸せになるための第1歩でもある。
人は安易な方向に流れやすく、大きな力にたやすく圧される。親子でも、学校でも、地方行政でも、国政でも、世界でも、上に立つものの取るべき責任は途方もなく大きい。その心一つで、小さな埃一つを、払えないほど大きな埃に変えてしまう。
聞きたくなくても、音が大きければ聞かない振りはできない。が、人は、自分にとって都合の悪い聞きたくないことには、簡単に耳を塞ぐことができる。
赤信号皆で渡れば…という仲間意識や、「…のくせに」という階級意識、選民意識は、それだけで他の権利を軽んじているが、それでも、耳を塞ぎ、見たいように見て結論を下す。
見たくないものはいつまでも見たいようにしか見えず、ありのままに見えることがない。

『私は努力したからちゃんとした生活を送れているんだ』と言うか、『私は裕福には程遠いけれども一生懸命生きているんだ』と言うか。《言う》を《言える》に置き換えてみると、そのニュアンスの違いが分かる。前者には、後者にはない、《貧乏=怠惰》とする傲慢さが見える。現実は真面目な努力を踏み躙ってばかりいるのだから。
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