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一言コラム
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子育ての責任は親にある、と、よくいわれる。それは間違いない。しかし、国や地域には?
家庭内では、親や祖父母が極端に違う躾をすれば、子供はどうすれば良いかわからず、精神が不安定になる。地域でも国でも同じこと。家庭内での躾と地域や国の指導が極端に違うと、子供は、絶望的に、どうして良いかわからなくなる。だから、家庭内にいえることは地域にも国にもいえる。世界にもいえる。そこに人倫が、一貫した良心が確固としてあれば、子供は絶望的な不安からは救われる。大人だって、どれほど救われるだろう。
誰にでもその責任がある。子供の親であろうが、なかろうが、社会の一員であるならば。しかし、個人的には、身の危険や社会的な不安を考えると、他人の子供や、見ず知らずの子供には、うっかり注意できない。だからこそ政治がある。外国との駆け引きは政治家冥利ではあろうが。
関連ページへ [ 2007.11.26.更新]


秋田の子殺しの裁判が続いているが、被告はイジメられっ子であるのに、裁判では、誰一人、イジメられっ子の心理を解ろうとしていない。強迫観念やトラウマは、理性を総動員しても、なかなかに制御し難いものであるのに。
それに、検察側はイジメはなかったかのように主張するが、いじめっ子は素直にやったと言うような善人か?善人がイジメなんかするか?ましてや、殺人犯のために罪を認める?当人たちにとっては単なる若気の至りであり、本当に忘れていても不思議はない。そんな当然のことで被告を嘘つきとするなど、一体、どれだけの冤罪があるかわかったものじゃない。検察側は正義なのか。それとも、法を笠にきた『最強最悪のいじめっ子』なのか。
裁判官にも、検察側にも、被告の弁護士にも、医者にも、イジメられっ子は一人とていないはずだ。的にされたが最後、精神を破壊されるか、自殺するまでイジメ続けられるのだから、勉学どころではない。イジメられたことのない人間には、その恐怖は、絶望は、絶対に解らない。頭から解ろうとしない者も呆れるほど多い。しかしそれでも、解ろうともせずに裁くのは是か?
人の心が、生きるために記憶を消してしまうことは現によくある。気が動転して前後不覚になることもある。事故にあった直後の記憶が飛ぶこともある。死を覚悟した時に、絶望のあまり我が子を認識できないこともある。苛めた人間に絡んだ記憶が全て消えてしまうこともある。イジメられっ子の精神は常にそんな恐慌状態にある。被告は、別に『急に記憶がなくなった』わけではなく、その状態で生きていたから、現実に対処できずにパニックを起こしたのではないのか。機械ならともかく、人として、冷静に殺人の全てを記憶しているほうが恐ろしい。検察はそれを当然というのか。法や知に長けていても、機械のように法を司るなら、国民は常に冤罪におびえて生きなければならない。
私自身も、子供も、見出ししか残っていない記憶が随分ある。書き記しておいたがために、その見出しさえ消えてしまったことを知ることもある。身体を生かすために、精神が勝手に記憶を消していく。私自身の中でも、その見出しだけの記憶は、今も徐々に増えている。しかし、それらを解ってくれる人には、未だに、一人として出会ったことがない。
裁くだけが裁判か。イジメの恐ろしさを、イジメが凶悪犯罪にも等しいことを、この悲しい事件で真摯に考えないか。
関連ページへ [ 2007.11.18.更新]


少々待っても支障はないのに、その数分が待てない。そんな人が増えているという。自分ができるから?それくらいのことができないわけないだろう、と。しかし、役所の対応などは、たらい回しと時間の浪費が仕事なのか、というくらいのんびりだ。これは間違いなく庶民のなかだけの現象だろう。管理社会は人を管理するのみで、慈しむことをしないできた。そのつけが回ってきたのだろう。
どうしても待てない事情があるときもある。しかし、やりたくてもできない事情があるときもある。それを思いやることができないから待てない。不穏な社会のなかで一時も安心できない。例えば、親を信頼しきっている子供は親から離れて遊ぶことができる。不安があれば、親がいらいらするほど離れなくなる。子は親に絶望しても親のそばにいるしかなく、その顔色を窺うしかないのだから。
なぜ自分は待てないのだろう、なぜ自分は○○できないのだろう、と自問することは、いくつになってもなければいけない。人はそれをくり返せるからこそ成長する。傲慢からくるものでなければ和らげることはできる。トラウマは、その原因が判れば軽くなることが多い。不安な心が僅かでも待つのに耐えられない。1秒でも早く不安を解消しないと不安に押しつぶされる!自分以外の人に、待たされないくらい大切にされている、という安心感がほしい。自分のなかのそんな感情を認めることができて、不安がるほどの理由がないことを認められれば、不安が減った分だけ待てるようになる。
関連ページへ [ 2007.11.14.更新]


中央教育審議会が、中学1、2年生の保健体育で、武道とダンスを選択制から必修にしようとしている。ダンスは国際人として役立つかもしれないが、武道はどうだろうか。武道は暴力ではない。が、イジメなどの差別が無くなる前に必修化されるのは実に恐ろしい。必修ともなれば、間違いなくイジメの温床になり、暴力の格好の隠れ蓑になるだろう。
イジメの残虐さは精神的な殺人だ。今から親になる世代は、加害者の立場であれ被害者の立場であれ、イジメを自ら体験し、それらイジメの実態を知っている。若い世代は、ますます子供を生まないようになるだろう。良い子ほど的にされ、殺されるために生まれるような不幸な人生を歩むことになるとわかっていて、生むのを躊躇わない親があろうか。
若い世代に子供を生んでほしければ、それなりの努力が必要だ。一部ではなく、全部が安心して生きられる社会を用意すればいい。少なくとも、その努力をないがしろにしたままでは、すぐに武道=暴力の時代がやって来る。
関連ページへ [ 2007.11.13.更新]


秋田県の、子供を殺した女性は、小学校1年から高校まで教師や生徒のイジメが続き、親にも暴力を振るわれていたという。どんなにか辛い恐怖の毎日だっただろう。小学校1年生の子供が、人生を踏みつけられるに値する何をするだろう。誰も庇ってくれない。助けてくれない。絶望の淵でどれほど泣いただろう。閉じこもっても、外に出れば生きている限りイジメられる。それがイジメだ。そんな中で成人した彼女の精神は、決して正常といえる状態ではなかっただろうし、今でもそうだろう。彼女は、極刑の判決を望んだというが、イジメの恐怖からは、死ぬ瞬間まで逃れられないことだろう。それは情状酌量に値する精神状態ではないだろうか。
殺人は許されないことだ。しかし、彼女をそこまで追い込んだのは、誰あろう、幼かった彼女を救えたはずの地元民なのだ。救いの手を差し伸べるどころか、イジメを容認し、黙認し、見ぬ振りをすることで寄ってたかってのイジメに加担したのだ。彼女がちゃんとした大人になれなかったのは、それは誰の責任か。彼女を精神不安定なまま成人させ、人殺しをさせてしまったのは、行政を始め、教師や近所の大人や、彼女と同年代の、地元の人間たちではないか。
いい加減な大人のいい加減な対応のお釣がこれなのだ。殺人を犯した彼女だけを責めるのは、どこか間違ってはいないか。最大のワルは、幼かった彼女を、実に、十数年に渡ってイジメ続け、他人の人生を踏み潰して思い切り憂さ晴らしをし、善人然として涼しい顔で生きている人間たちだ。彼女をそこに追い込んだ殺人の立役者ともいうべき人々こそが、まず裁かれるべきだろう。また、彼女の人生を狂わせたことを心から謝罪させ贖罪をさせるべきだろう。本来彼女が歩むことのできたかもしれない人生を、その片鱗だけでも感じられるよう、過去の賠償をすべきだろう。
彼女は、凶悪犯罪の被害者が受けるカウンセリングを受け、生まれて初めてかもしれない精神の安定を得、恐怖の半生から救われ、保護され、静かに余生を送る権利があるのではないか。精神の安定を得れば、彼女が再び罪を犯すこともないのではないか。彼女が静かな余生を送れるようになることを心から願う。
人の精神をもてあそぶ事の恐ろしさを、イジメの悲惨さを、いい加減、誰もが肝に銘じるときだ。
関連ページへ [ 2007.11.1.更新]


眉をひそめたくなるニュースにも、またかと思う毎日だが、今朝はことに唖然とした。
通常、質問には答えがある。ましてや、公開質問状という形を採るなら、その反響に対応することが前提になる。でなければ質問状という形を採ることはできない。
名のある識者が公開質問状を出しておいて、その反響としての公開質問状を見る気も応じる気もないとは、開いた口が塞がらない。これでは、ただ引っ掻き回していちゃもんをつける類の低次元さではないか。しかもそのやり方をくり返しているとは。名に恥じる行為とは思わないのだろうか。
仮にも名のある識者ならば、その言動が手本とされることも多いだろう。こういう人物が識者として祭り上げられることに、同国民として非常な不名誉と大きな不安を感じてしまう。
関連ページへ [ 2007.10.28.更新]


全ての税が、直接的、間接的な国民の血税ということに異議は出ないだろうが、その使途には不明瞭なものが多く、呆れるほど不正が蔓延っている。実際、福祉の削減や増税を云々するならば、その使途が明らかであることは至極当然といえる。民の代表の公僕がそれを渋るなど、不正をしていますと言わんばかり。しかし、わが国から巨額の援助金を受けた国々の殆ども使途を明らかにしないという。
今、日本では、格差の拡大・相次ぐ増税・福祉の削減で、餓死したり、医者にもかかれず、家もない人が異常に増えている。巷には派遣とは名ばかりの日雇いや臨時雇いばかり。必然的に出産率が下がり、高齢者の比率が高まる。事故が減ったわけでもないのに自動車保険料は下がり、医学は進んでいるはずなのに、若くして杖をつく人が目立つ。自然破壊で種が絶滅の危機にあるように、衆愚政治で労働者層は壊滅の危機にある?
善人然として援助する国も国なら、それを受ける国も国。詳細も、人が隠すのは検証されると困るからであり、やましくなければ進んで明らかにするはず。本当に援助する気なら、技術者・労働力・援助物資を現地に送るのが一番。国内でそれらのポストが空けば失業率も下がる。安全を確保できない国への援助は滞るだろうが、そういう国では、何の援助だろうと、本当に必要な人々には絶対に届くはずがない。そんなものは『世界への協調』ではない。
政治家は口を開けば『増税が必要だ』と言うが、本当に『国民を見殺しにせざるをえないほど国の経済が破綻している』のなら、他国への援助など正気の沙汰ではない。プールの排水口に蓋をしないなら水は溜められない。お金だって使えば無くなる。家計の節約は当たり前。国の財政にしても、税が私物ででもあるかのように私腹を肥やし際限なく搾取する公僕の大名気取りと報酬と、ばら撒けば良いとばかりの援助金をカットしないなら、永久に回復などしない。
関連ページへ [ 2007.10.25.更新]


人は何のために成人するまで親を必要とするのか。人が人として成るためには守られ心身の安定が保たれる必要があるからだ。それなのに、安易に、体が大人になったから精神的に大人であるべきだというのは、イジメっ子の目からだけ見た傲慢論ではないか。
イジメが日常化している社会のなかで、現代のイジメの走りともいえる世代はもうとっくに成人している。しかし、その中で心身と暮らしの安定を手にできた人がどれほどいるだろうか。周囲の現実を見ていると、いないのではないかと答えたくなる。考える動物である『ヒト』が、育まれるべき時代に心身の安定を得られなかったことは、生涯心の傷となり痛手となるのだから。そのトラウマには犯罪被害者に対する以上の配慮があっても良いのではないか。
政府には国民の権利を守る義務がある。近頃は、色々な権利を求めての訴訟も増え、その多くがその証として賠償金を求めている。その賠償金は、心身ともに生活を立て直す支えとなる。
イジメで不当に人権を剥奪され、その教育の権利を奪われたイジメられっ子にのすべてに、申請があれば生活の保障をするよう制度化すべきではないだろうか。学校が管理をきちんとしていれば出席記録だって確認できるだろう。不登校児であった人たちの親は老い、徐々に働けない人が増えている。あきらかに、不登校ということばでお茶を濁して終わりにできる状況ではなくなってきているのだから。
関連ページへ [ 2007.10.18.更新]


少し前は家庭内暴力、最近は、虐待という言葉がニュース良く使われる。力を振るう側から見た言葉から、力を振るわれる側から見た言葉へと変化している。これは、弱者の側に立つ発想という点で良い変化といえる。ただ、人の思考はYESorNOという極端に走りがちであり、力を振るわれる側からの発想のみに偏ると、また、ろくな結果にならないという気がする。
高齢者の虐待ということばも良く目につきだしたが、老人介護などはいつ終わるとも知れない。対象が大人であれば、働かなければ食べられないのに、看護も気遣いも体力も、看護する人の気力体力は簡単に限界を超えてしまう。希望や夢があり、子供が自立するまでの育児でも育児ノイローゼになりやすい。その世知辛さに拍車をかける社会のなかで、人格が破綻することも多い。ましてや、究極の隷属状態ともいえる大の大人相手の介護では、いうまでもない。
責めることは簡単だ。自分が介護するわけではないのだから。その無限地獄に自分が落とされて初めてその悲惨さを知ることができる。しかし、その時はもう遅い。自分の大事な家族だ、少しでも長く生きてほしい、が、その一方で、自分の現在も未来も、いつ終わるともしれない介護一色になる。そして、それを避けることは、良心も、世間も、法も、許さないのだから。
これは昔から、嫁がいれば嫁の仕事とされてきた。嫁がいなければ家族の中の女の仕事とされた。その女もいなければ、家族の誰かの仕事とされた。家族の誰かを生贄にして他の人生があった。 こんな悪循環が現代も続いている。一時期は救われるかに見えたものの、今はまた、社会福祉予算の削減で、なお一層厳しい、下層階級総奴隷化ともいうべき、あるにはあるが、受けるには困難を極める福祉ばかりが並んでいる。
責められるべきは、誰だろうか?
関連ページへ [ 2007.10.12.更新]


20代の女性が生活保護を約1年間不正受給していたというニュースを目にした。当時の世帯主は親、ということは、少なくとも一人以上の親と同居しており、大人二人以上の世帯であることになる。大人二人以上で約1年で約170万円の保護費は月額14万円強になる。これは総額だろうから、支給された家賃も含まれているはずだ。
国の保護は何であれ幾重もの壁が立ちはだかり、並大抵では受けられない。保護を受けられるということは、仕事に就けない余程の事情を抱えているということだ。悪意による不正受給は別として、そこから社会復帰に至るまでには、通常よりも多額の費用がかかるのが当然でもある。健康的な社会生活を送るためには、心身健康な人でも、大人二人以上でこの金額では、今現在の日本では決して文化的で健康的な生活などできない。ましてや、『余程の事情』を消し去り、生活を揺ぎないように立て直すなどできないのではないか。
それらを理解できない者が福祉制度を運用することで、それが軽視されてはいないか。福祉の援助を受ける者には奇跡が起こり、魔法が使えるというのなら別だが、弱者をさらにいたぶるだけに終わる行政で良いのだろうか。国がくれてやるのだから、という意見もあるだろう。しかし、本気で受給者の社会復帰を望むなら、その土台がまたすぐに揺らぐことの無いよう、きちんと固めていけるものであるのが道理だろう。
少なくとも、その程度の福祉しかできない国庫だというのであれば、どこぞの議員が、議員報酬の他に、公的援助を受けているどこぞの団体から毎月10万円ものお手当をもらえたりするのは摩訶不思議だ。それは『足りない予算』ではあり得ないことで、仮にも世界の中心に立ちたいという国においては、決してあってはならない恥ずべき癌ではないか。議員は国民の代表であり、卑しむべき支配者になるなら、議員の資格は剥奪されるべきだろう。
関連ページへ [ 2007.10.10.更新]


今度は、相撲界で若い命が消された。慣れないお金を持つとろくなことをしないというが、身に余る権力に酔い痴れるのも人の常だ。おそらくは毎日がイジメやイビリや暴力の連続だっただろう。敢えて親元に逃げ帰るほど生きた心地がしなかったのだろう。どうも、昔から、軍隊を含め、体育会系のシゴキは鍛えるというにはあまりあるとしか思えない。人権無視を当然とする訓練などで、人は本当に、あらゆる意味で、鍛えられ向上するのだろうか。
国技としての重みを存続させるために伝統を重んじる、それ自体に問題はない。しかし、それが人権無視や命の無視につながるなら、どうすべきかに疑問の余地はない。秩序を守るためのはずの伝統や決まりは、伝統を守るためだけの拘束になった時が変えるべき時なのかもしれない。権力をかさにきたイジメ・イビリ・暴行などで致死に至らせるなど、いかに変え難い伝統であろうとも、変えないことで重大な事件を引き起こすのであればなおさらに。
人は不完全な生き物であり、伝統を築いても、それが長く良く維持されることはどこの歴史上にもないのではないか。激動と悪夢の歴史を経て得た平等と人権を尊ぶ万民に良き思想を、築き上げないまま、過去の遺物にしたくはないものだ。
関連ページへ [ 2007.9.30.更新]


ミャンマーの軍政に対抗し続ける市民たち、それを武力で制圧しようとする政府。人道的に、こういう政治は許せない。しかし、ブッシュ米大統領のいう経済制裁をしても、矛先がどこであれ、その実害を最も被るのが貧富のピラミッドの底辺市民というのでは、やる価値があるだろうか。経済制裁と聞くたびに思うが、底辺層をいたぶるだけに終わるような政策は逆効果ではないのか。大事でも小事でも、口で人を救うと言いながら、現実には人をいたぶる結果しか出ないようでは救いとはいえない。
どれほど不本意でも、武力には武力でしか対抗できないことがある。ゲリラであろうと、軍隊であろうと、話し合いの余地のない武力行為には武力でしか対抗できない。国内外を問わず、武器を持たない多数の市民が一方的に制圧される、そういうときこそ、武力を持って救っても、世界に何ら恥じることはないのではないか。それこそヒーローだと思う…。
関連ページへ [ 2007.9.26.更新]


沖縄返還交渉の際、占領国のジョンソン米大統領が当時の佐藤栄作首相に対し、日本が軍事的責任を果たすことを交換条件にしたという外交文書が公開されたという。それほどまでに日本人に武器を取らせたいのか。
究極兵器である原爆を落としてまで戦争放棄と武装解除をさせた相手に武器を取れと強制することにどんな理由があるだろう。やはり、日本は、出る杭を打ちたいためだけで原爆を落とされたのか。あくまで人倫をもって軍国主義国家の行く手を阻んだのだというなら、突きつける条件は恒久的な武装放棄なのだから。
戦争を放棄し武装解除した丸裸の状態で武器を突きつけられるのだから、当時の首相でなくともその条件をのむしかない。
人が武器をかざせば身を守るために武器を取るしかない。また、同様に、自分が武器を取れば人も武器を取るしかない。一握りの特定の民族だけの幸せは世界を平和にしない。世界であれ、ひとつの国であれ、身近の地域であれ、それら差別は社会不安を増大させることしかしない。
人の道を踏み外そうとする親を子がたしなめるごとく、支配する側が人倫から逸れるなら、それをたしなめるのは人倫に添う正しい行為でもある。世界全体の平和のためには、どんな理由がそれを躊躇する理由になりうるだろうか。
関連ページへ [ 2007.8.30.更新]


日本企業の収益依存度が国内から国外に移っているらしい。表面的には、国民の首を絞める手を緩めたのかと思えないこともない。しかし、それは他人事として見た場合であって、実際には、国民から絞れるものはもうない、と見切りをつけたのだろう。
映画で見た恐怖のアリの大移動を思い出す。第2次世界大戦を引き起こしたのは日本のとどまるところを知らない海外進出の脅威ではなかったか。またジャップということばに敵意と軽蔑が籠められるのを聞く日が来るのだろうか。
関連ページへ [ 2007.8.21.更新]


今年は異常に暑く、高齢者がその犠牲になっている。冷暖房機器の発達した現代に、なぜか?その発達した冷暖房機器を使えるだけの暮らしが、高齢で働けなくなった者への福祉がなされていないから、酷税によってわずかな年金も取り上げられているから。
運動クラブの練習でも使者が出ているが、体育会系にありがちな『心頭滅却すれば…』的な発想を、この猛暑に適用するのは尋常か?!地震もさることながら、猛暑への緊急対策も行政が手腕を発揮すべきではないのか。大震災並みの重税を取り立てるだけが能ではないだろう。
そのうえ、葬式代どころか火葬代もなく、仕事も食べるものもなく、死んだ身内をどうしようもなく、逮捕される例もでてきた。以前はこれほど悲しい逮捕劇はなかった。すべて今の政治家のなせる業、思いのままの枝葉でしかない。
関連ページへ [ 2007.8.20.更新]


琉球大が51年ぶりにアメリカの要求で処分した7人の元学生の処分を取り消したというのに驚いた。原爆展開催などを理由に処分されていたというのも納得できない。人として何とも恥ずべき行為ではないか。検定で削除された史実といい、沖縄の戦後は、まだまだ終わってはいない。
なぜ、今、なのだろうか。返還後すぐに取り消すことはできなかったのだろうか。それほど、返還後も、アメリカは日本に対して傲慢なのだろうか。何も知らされない庶民には知る由もないが。
関連ページへ [ 2007.8.19.更新]


他国の公共事業に約400億もの援助をするというが、国内の年間18万円の年金生活者からは健保税を払えなければ健保証を取り上げる。 よく取り沙汰される生活保護でも、一人当たり最低16万前後の生活が保障されるというが、それは最高額であって最低額ではない。その下限がないからこそ明示がなされない。その下限でさえ、人の尊厳を奪った挙句でも、なかなかに保障されがたい。(まずまずの上限を掲げておけば、一部の不満をなだめ、それに対する他の一部の反感をもあおることができる。こういうやり方は結束を壊したいとき、結束を固めさせたくないときによく使われる。)
それで日本企業が海外進出したとて、潤うのは政治家と企業であって、庶民は重税に追いかけられ、病気におびえながら、その日を生き延びるしかない。
この、我が子の首を絞めてまで他人にへつらうような、甚だしく民主制に反するやり方が『美しい国』だというのか。こんな施政を続ければ、虐げられた庶民が、自国の政治家や企業だけでなく、その援助を受け入れた他国の政治家や国民までをも恨む日が、遠からず来るだろう。
関連ページへ [ 2007.8.18.更新]


自分の首を絞めているものから逃れるために、敢えて、他の首を絞めかねないものに首を差し出す。強者がひしめく選挙などは、そのジレンマから逃れようがない。足を引っ張り合うことにのみ血税を費やすような政治は子供の玩具の取り合いとなんら変わりがない。
しかし、それでも、不正という疑惑を追及することが非常に重要であることにも変わりがない。
関連ページへ [ 2007.8.17.更新]


人が生きるために必要な最低限のものには大差がない。それに生きる喜びを感じられる余地がなければ最低の文化的生活とは言えない。それが行政によってなされたならば、敢えて優遇措置をとる必要がある場合はそれほど多くないのではないか。
昨今、特定の少数に限定した優遇措置を受けようとする訴訟が勝訴している。それ自体は評価されるべきであり、苦しい状況から逃れたいのもわかる。
しかし、現在は、当人やその周囲がどんなに努力しても生活レベルの向上の見込みがないか、少ない、当然率先してなされるべき、高齢者福祉、障害者福祉、母子福祉などが異常に削減されている。
それに比較して破格の優遇措置となるということだけが、どうにも納得できない。生きるための最低限の必要の恩恵に、誰もが平等に浴しているところでの優遇ならば納得もできようが。
関連ページへ [ 2007.8.15.更新]


戦前から、日本人は、共産主義、社会主義は民主主義と大きく異なり血を好み、私有財産は許されない、と洗脳?されてきた。しかし、どうみても、どんな色眼鏡で見ようとも、日本共産党の現実は違う。それでも、なんともいえない恐怖心が染みついている。これは学校教育の力であり、まさに洗脳の力でもあろう。
私は共産党員ではないが、何度も共産党に投票したいと思ったことがある。しかし、学校教育で教え込まれた恐怖に負けていた。つい最近、弱者に対するほど、あらゆる権力の不正横暴が全く正されないことに、怒り心頭に発するまで。
抑圧された庶民には、まだまだ、投票に行こうとしない人、行きたくても行けない事情を抱える人、が多い。戦後教育で浸透した共産主義の概念を、真っ向から公に否定すれば、日本の共産党は伸びるのかもしれない。
関連ページへ [ 2007.7.30.更新]


やっと、与野党の逆転が始まった。与党への批判から、野党第1党が大きく伸びたのだろう。しかし、これですべての政治家が浄化されるかといえば、それはまだ先のことに思える。弱者を理解し救おうとする強者はあまりに少ない。
関連ページへ [ 2007.7.30.更新]


7月29日は参議院選挙。行かない人の票の重みは、結果として、政党の得票数に応じて分けられたのと同じ効果がある。それを承知で行かないのなら、蝙蝠の例えよろしく、多数党に入れたも同じになる。たとえ人の手を借りてでも投票に行き、自分の票の重みを生かそう。
関連ページへ [ 2007.7.27.更新]


偉い?人たちが訳知り顔によく言うことばは正しい?
「不満ばかりくどくど言ってはダメ。感情的になってはダメ。」理性的に対処したほうが良いとわかっていても、進退窮まった人が感情的にならずにすむか?我が事でも理性的でいられるのは、それを乗り越える『力』を持っているか、無関係だから理性的でいられるか、だ。
「助けてあげたいけどお金はダメ。あなたのためにならないから。」???お金の絡まない窮状はイジメやイビリなどの差別くらいじゃないだろうか?それも、訴えようとすればお金が絡む。今の世の中、先立つものはお金。お金を出したくないから『屁理屈』をこねているだけにすぎない。それでは本当の助けにはならない。
関連ページへ [ 2007.7.27.更新]


先日、外来植物が化学物質を放出し周囲の植物の生育を抑えるという記事を目にした。外来魚のブラックバスも他の魚を食いつくして繁殖する。この国に馴染んでくれるのは良いが、正当防衛を行使して駆除するのは当然の権利だろう。国外のものを毛嫌いするわけではないが、外国産はアク?の強すぎるものが多い。
思想でも、昔の日本では、敵に扇を射たせたり、敵に塩を送るような戦がなされていた。こういう節度ある?戦い方は、他には中世の騎士道にしか見られない。己に恥じない理由がないがために、騎士道は無視され、そこに馴染もうとすれば無視しなければ生きられない。現代は世界中の何もかもが殺伐としている。
関連ページへ [ 2007.7.21.更新]


個人の需要はその個人にしか理解できない。何が必要で何が不要かは、その個人の事情で変わる。
しかし、我が家の事情など、他人に知られたくない。また、弱者が周囲に内情を解ってもらいたくて話しても、家庭の事情をあからさまにするのは恥ずかしい行為だ、と、強者は眉をひそめてたしなめる。
言わなければ解ろうともしない。しかし、言えば言ったと非難する。一体どうしろというのか。
関連ページへ [ 2007.7.12.更新]


日本人は、お上に弱い。お上がスローガンを掲げれば、事実がどうあろうと現実に蓋をし、スローガンが掲げられた時点で、それがなされているかどうかの詮索をしないという習慣を受け入れてきた。目上に対して絶対服従する習性は日本人の国民性なのだろうか。それとも、小人の特性なのだろうか。お上が聖人君子である場合にはそれが何よりだろうが、現実はどうだろうか。
関連ページへ [ 2007.7.11.更新]


この日本で福祉の充実が叫ばれてより、最低限の生活の保証の定めがある。一般に、昨今では生活苦で死ぬほどのことは無いともされてきた。実際、恵まれた環境に生きているなら、それは紛れもない現実でもある。
しかし、優しさ、マジメさで損をする。餓死のニュースが流れる。生活を支えられる仕事がない。銀行ローンも公的ローンも借りられない。高利貸しでは返せない。破産が増える。ホームレスが増える。希望の灯が消える。
戦後を沸かせた民主主義は、寄せる波のように形を変えた。人権も、選挙権も、浜辺の砂に描いた絵のように、世の波が跡形もなく消していく。たとえ波に濡れても、消える前に消えない土手を築こう。
関連ページへ [ 2007.7.9.更新]


高齢者に限らず、年間18万円の年金生活者や障害者からも健康保険と介護保険料を徴収するようになるらしい。それを差し引いた額が年金として振り込まれ、年金額の半額以上になる場合は差し引かずに支給し、振込用紙を送り、払わないという選択肢をあたえ、払わない場合は健保証を取りあげる。年間18万?『稼げない奴は治療など受けずに早く死ね』というところか。『姥捨て』どころか『働けなくなれば捨てる』という『国民総奴隷』の時代になった。これが世紀末でなくて何だろう。
それほどに国民の大多数の生活を窮させてさえも、ただ名誉を得たいと世界中にお金をばらまき、私腹を肥やし、得られるものは『くれるものはいただく』という程度でしかないものを。
関連ページへ [ 2007.7.6.更新]


投票を国民の義務と法令化している国もあるが、現実は、有権者全てが投票できるようにはなっていない。住民票を移さずに遠方に進学や就職すれば、そう簡単に里帰りもできない。何らかの理由で住む家を失くしている人は、投票したくてもできない。
しかし、IT網を利用すれば直接民主制の一部導入が可能ではないだろうか。ことに、地域ごとに結果を出す比例代表制は、支持政党に投票するのだから問題も比較的少ないのではないか。また、少々問題の処理に手間取るとしても、そうできれば、有権者すべてが投票できる土台になるのではないだろうか。
関連ページへ [ 2007.6.27.更新]


たまに段差を消した歩道があるとホッとする。全国の歩道をバリアフリーにできないのだろうか。リハビリを兼ねた自転車も、車椅子も、乳母車も、歩行補助具も、ちょっとした段差で転びかねない人も、目の悪い人も、通行しやすくなる。消えたほうが良いと思う人は本当にたくさんいる。
関連ページへ [ 2007.6.26.更新]


人の誠意を、良心を信じたために、失ったものは計り知れない。その自分に、たった一つ残されている選挙権。住む家がないと、それすら取りあげられる現実。その権利を奪われている人たちを思うと、投票の棄権は浅はかではないだろうか。
関連ページへ [ 2007.6.25.更新]


国の上層部は敗戦国としてしかたなく民主制を受け入れたのだろうが、庶民はといえば、敗戦後の復興期には、ささやかながらも希望を持ち、心に温かみを持っていた。それも霧散した現代、喉もと過ぎればなのか、ほとぼりが冷めたと思うのか、上層部は進んで武器を取ろうとしていないか。防衛と進んで武器を取るのとには天と地ほどの違いがある。
自分たち日本人は、国外でナチに迎合するかのような行為をした民族であることを忘れてはいけない。国内では、戦争に反対した多くの人を拷問で殺したことも、姫百合の塔に眠るまだ十代の娘たちに集団自決を強制したことも、忘れていいことではない。こんな暗い過去を持つ国が世界にいくつあるだろう。罪に蓋して武器を取れば、過去の亡霊が甦るかもしれない。この国が進んで武器を取ることに眉をひそめる国は世界にいくらでもあるだろう。
関連ページへ [ 2007.6.23.更新]


自転車が歩道を通れるところを増やす法律ができるらしい。が、通れるところを増やしても、ただそれだけでは、自転車はまちがいなく歩道を避ける。
自転車は維持費が安く、運動にもなり、リハビリにも良いので乗る人は多い。しかし、歩道に段差があるために、荷物はカゴから飛び出るし、子供乗せの子供は飛び上がるし、お尻や腰にもろに衝撃がくる。
自転車にとって、車道は危ない。しかし、今の歩道は、お世辞にも走りやすいとはいえない。
関連ページへ [ 2007.6.20.更新]


75歳以上の高齢ドライバーの認知機能検査が導入されるという。まず第一歩というところか。免許更新の際に全員に交通法規のテストでもできるようになればよいが。銀行のATMのような感じですぐに結果が出て、結果次第では再交付されないような。
交通法規は覚えておくのが当然なのだから文句は言えない。ましてや、車両の構造などを除けば一般常識も多く、覚えるのは難しくない。改めて覚える?のにも手こずるようでは、その運転技術すら疑わしい。
関連ページへ [ 2007.6.18.更新]


苦を知るからこそ人は努力する。よく知られた子育ての教訓に、楽ばかりで苦しさを知らずに育ったり、特別扱いされて育つと人格が育ち難い、人の上に立てる人間にはなり難い、というのがある。いい例が、自分の上に行きそうな他人を見ると、罠にかけ陥れ奪い、他人の才や財で楽をし得々とする低俗なやからだ。
それを真似たようなイジメやイビリ、その他の差別の蔓延は、知育のそもそもの出発点である教育を受ける権利をも侵している。これでは切磋琢磨の逆を行き、優秀な人材は芽のうちに消え、将来は堕落に満ちる。
関連ページへ [ 2007.6.17.更新]


日本はとっくに経済大国から大きく脱落している?知るのが遅い…?指導者階級が利権争いばかりしてるから…。敗戦後の繁栄と努力を無にし、後進国に肩を並べるまでに堕とした責任をとって官総辞職でもすればいい。全部とは言えないが、今の官の有様は誠実な庶民の足元にも遠く及ばない。
  • 法の抜け道の温床である法律用語のほとんどを廃しわかりやすくする。
  • 生活苦を無くすために国が率先して慈善を行い、企業や個人の慈善行為は全額税控除の対象とする。
  • 不正行為は即逮捕・懲戒免職、官職復帰を全面的に禁止する。国会開催中でも例外としない。
  • 官や企業が不正により得た資産は国や地方が管理し、その被害者の救済を最優先に、国の健全化を図る。
民主主義の健全な精神を持つならば端から言われるまでもないことだろうが、これくらいは自戒としてもやってほしい。まあ、言うのはたやすい。が、政治の知識もなく、法にも無知で、生殺しのまま最下級に突き落とされた身には言葉しかない。それさえ、強い痛み止めのせいか記憶がおぼろになり、言葉に困るときがある。悔しくも、なお恨めしくもある。
関連ページへ [ 2007.6.13.更新]


歴史の中のいずれかの時代で正しいとされても、それは、その時代で認められたものであり、他の時代にも通じるとはいえない。それは現代も同じ。それほどに人を左右する時の政治。だからこそ、権力に圧されがちな理性を叱咤激励して政治家を選別し、そのありようを見つめていたい。
関連ページへ [ 2007.6.11.更新]


以前、免許更新の講習で車やバイクを夜運転する際はライトを下向きにと指導された。歩行者や自転車がライトで目が眩み、事故につながるから。対向車だって眩しいはず。
なのに、最近は一般車だけでなくタクシーまでが上向きにしている。遥かかなたまで真昼のようにできるとでも?そのせいで、自転車や歩行者は、その遥かかなたのライトをも直視させられる。
違反として点数を引くようにすれば良い。必然的にスピードだって落とさざるをえない。たぶん、事故もグッと減る。
関連ページへ [ 2007.6.9.更新]


昔の「切り捨て御免」を模したような法を作ろうとするようでは文明国にほど遠い。ホームレスがいるのはおかしい。健康保険証が要るのもおかしい。それが存在し、要るというなら、そこには格差?と差別の中世の国がある。
関連ページへ [ 2007.6.6.更新]


企業では、トップが責任を取って、云々…、というやり方で責任を取るのは仕方がない。しかし、それだけでは、責任を取る元となった対象は少しも救われていない。一連の保険金の不当な不払いなど、被害者等を悪者に仕立てたからこそ払わずに済ませられたはず。それに絡んだ不正も芋蔓式に出てくるだろう。企業は、それを正し、滞りなく賠償を果たして、やっと、責任を取ったと言える。そこまで責任を取る企業があるかどうか、政府が責任を取らせるかどうか、などとは、期待しない方が落胆しないですむのだろうか。
関連ページへ関連ページへ [ 2007.4.12.更新]


床に座る生活を改めるように勧められて久しいが、元々あるのならともかく、ベッドは高くて買えない。置き場所もない。1万くらい出せるでしょうと、人は言う。しかし、大人二人での生活は、健常者の頃、月10万でも文化的には程遠くきつかった。ましてや、人にちょっとぶつかっただけで痛み止めと湿布薬のお世話になる身体では。しかたなく3段ユニット棚を寄せ集めてベッド代わりにしたら落ちてしまい、また湿布だらけになってしまった。ベッドも何でも良くはないらしい。
人は霞を食べて生きられる仙人ではない。しかし、今の労働者は10万の給料でも良い方だ。この中から交通費を捻り出し、市税、健保料、家賃、光熱費、電話代、等々を支払い、残りで暮らさねばならない。それほどの重みのある金額を単なる役員手当てとして受け取るような政治家やその政党には、これからも絶対に1票を投じない、と、改めて心に誓う。
関連ページへ [ 2007.3.14.更新]


異常気象とはいうものの、寒の戻りはそれらしい。この星はどうなっていくのだろうか。貧しい者の多くは倹約と節約の毎日が当然で、温暖化に拍車をかけるような暮らしには縁がない。雲のうえでは、温暖化に盛んに拍車をかけ続けているようなのに、スローガンも声を限りに飛び交っている。《雲の上の異常》がなければ、世は事も無し、となるだろうに。温暖化に拍車をかける権利が売買されるところを見ると、掛け声だけで終わりそうなのは日本だけではないのだろうか。
関連ページへ [ 2007.3.12.更新]


ふと目についたタイトルに引かれて本を買った。自分のコラムの内容と似た考えがとても多く、わが意を得たり、と思えた。しかし、読み進むにつれ、作者の成功者たる傲慢さが見え、社会的な立場の違いに鳥肌が立った。人倫を称え、今の社会を憂えていても、法の網をかいくぐることに少しもやましさを感じないらしい。「やりどく」や、「これが正しいというのはない」とする権力の前で、恐怖しない者がどれだけいるだろうか。
関連ページへ [ 2007.3.-.更新]


首を横に向けるのも腰の曲げ伸ばしも痛い身体では清掃もできない。子供は地域ぐるみのイジメで引き籠もり。それを、何かにつけての嫌がらせ。またしても、団地のゴミ捨て場の清掃当番。本来暮れで交代する予定を、堂々と1週間ずらし、暮れから正月いっぱいにして回す上の住人。週2回2週間、10分程度で終わるのでは、便利屋に依頼したくとも引き受けてくれない。子供に、それでも昼日中に外に出て顔を晒せと、やれと、親から子に強いさせて勝ち誇る社会が、なぜまかり通るのか。
関連ページへ [ 2006.12.26.更新]


クリスマスムードの濃い暮れの街。色々な節季の祝を喜ぶ心。それを全ての人が自分の中に持てる日は来るだろうか。人の幸を妬み不幸に安堵する心。それを自分の中に持たない人が増えるほど、節季の祝を喜ぶ人も増えていく。
関連ページへ関連ページへ [ 2006.12.16.更新]


政府がイジメに対する方針を決めようとしているが、いじめっ子の特別クラス設置を差別と言う向きがある。ならば、イジメられっ子が学校に行けないのも、死ぬまで虐められるのも、それ以上に差別だろう。
クラス全体や地域全体のイジメでは、イジメの首謀者を切り離すことでイジメに加担させられていた子供達も救われる。しかも、いじめっ子は勉強できる。しかし、イジメられっ子は『はいそうですか』と不安と恐怖を一掃できるだろうか。即外出できるだろうか。
他人の人生を踏みにじることを戒めるのは、はたして差別だろうか。
関連ページへ [ 2006.12.08.更新]


今日11月3日は文化の日。国民の祝日を祝う行事があちこちで行われることだろう。そんな行事に浮かれる人々は、また減ったことだろう。今や、今日の暮らしに事欠き、祝事など雲の上のできごとになった人々がどんどん増えている。お祭り騒ぎのやぐらの上からは平和が溢れ出ているが、やぐらの下を離れれば希望のない恐怖に満ちている。
関連ページへ [ 2006.11.03.更新]


国内でも国外でも、人の命を奪うことが、何と簡単になされるのだろう。その奪われた命を、何と簡単にあしらえるのだろう。殺された人は殺されるようなことをしているものだとなぜ決めつけるのだろう。殺された人に反論は絶対に許されない。
あまりにも簡単に人を殺す人がいる現代、安易に殺された人を責め、殺されたのを恥さらしとするなど、人を貶めるために人を簡単に殺す人を、してやったりと、ほくそえませるだけではないか。せめて身内だけはそれをすべきではない。
関連ページへ [ 2006.10.-.更新]


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